1人と1匹のいきぬき

背伸びして棚に上げています。二日酔いが常。

たらみの話。

 

どうなの?それで

最近は好きなことやれてるの?

 

 

 

叔母は、そうぼくに聞いたー

 

 

 

叔母は不思議な人だ。

 

ぼくから見たら一番身近な成功者で、好きなところに住んで、好きなものを買って、好きなものを食べて生きている。仕事は大変だよ~と笑いながら言うが、誰もが知っているところでバリバリに働いている。

その割に、一緒にご飯を食べているととぼけたことを言うし、抜けているところもある(ように見える)。言いたいことを自由に言う気持ちの良い人で、常に笑っているから嫌味も感じない。

自由に生きているなあと思う。

 

 

思えば新卒で入社した会社を辞めたときも、周囲が猛反対するなか叔母はひとり

 

あーあー、もったいない

 

とだけ言い、笑っていた。

 

 

 

好きにやれば良いじゃんね

ダメだったら一緒に会社探してあげるよ

 

そんなことを言いながらスパークリングワインをコクリと飲む。

 

 

 

 

ずっと連絡してたんだからね

まぁ便りのないことは元気な証拠だから心配はしてなかったけど

あーでも良かった、がんばってるんだね

 

ふわっと笑顔を見せてそう言った。

 

 

 

 

 

それはすいません、全然気付かなかったのよ

 

そう伝えようと口を開くと

 

ねえこれすごく美味しいね、もうひとつ頼んじゃわない?

 

 もう話題は目の前の美味しいキムチに移っていた。

 

 

開いた口の行き先に困りつつ「そうだね」とだけ言い、ビールを流し込む。

 

 

 

 

 

この人には敵わない。

 

色んなことを相談してきたが、この人はいつもどんなことも、

日常会話のように楽しそうに話す。

悩んで相談したことがバカみたいに感じるほど、他の他愛ない話題と同じように。

そんな時間に救われることが多い。

 

 

ねえねえ、今日泊まっても良い?

 

えー、明日朝早いよ、しかも片付けてない

 

うん、俺も早い

 

あ、そう、じゃ全然良いよ

夜食買ってく?

 

買ってく、ゼリー

 

あ、たらみだ

 

うん、たらみ

 

美味いよね

 

 

 

 

 

ねえねえ、桜見てこうか

 

良いね

 

1駅2駅くらい歩けば良い夜桜が見れるんじゃあないでしょうか

 

良いですね良いですね

 

 

 

 

 

良い大人が、こんなガキよりもテンション高く夜道を歩いていく。

 

 

 

 

 

あれ桜かね?

 

たぶん桜だね

 

全然ちゃうやん

 

桜に見えたよね

 

うん、見えた

 

花ですらなかったね

 

うん、不思議

 

不思議

 

妄想って大事な

 

うん、そうな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近、ちょっとした田舎に引っ越した。

干物の美味い、山と海に囲まれた場所だ。

 

朝には庭の芝刈りをする。(尚、おばあさんは川へ洗濯には行かない)

お経を読み、ハンモックに揺られながら珈琲を頂きつつ、仕事の整理をする。

 

東京から出るときに仕事を減らしたが、理想的な暮らしには近い気がする。

ご飯を食べて、ベッドで寝て、足を伸ばしてお風呂に入れる。朝、太陽に当たる。

これさえできれば、充分しあわせである。

 

 

 

とはいえ、東京は好きだ。

世界を周って帰ってきても尚、東京は刺激の多い街だ。

ゆっくり生きていたいと思うと同時に、東京で生きていたいとも思う。

 

 

であるからこそ、地方で東京の仕事をしている。

これはぼくなりのひとつの答えで、それが正しいのかを確かめる実験でもある。

 

 

 

 

へえ、またおもしろいことやってるね

 

そう叔母は笑った。

 

 

 

 

「まぁそんなこともあるよね」

「好きなことやりなよ~」

「よくやってるわ、ほんと」

 

 

 

とか、色んなひとが色んなことを言うじゃない?

どこにいたって自分次第よ。

 

そう叔母はふっと言った。

 

 

 

 

 

 

好き勝手な言葉で世の中は出来ている。

ぽつぽつと表れては消えるその言葉の切れ端たちに、

何か答えっぽいものを見出したり、惑わされたり、

そうやってまた、ぼくらは自分勝手に受け取りながら生きている。

 

 

 

 

 

この前親父に高級すき焼き奢ってもらったよ、そういえば

 

えー、お兄ちゃんそんなお金持ってるの笑

 

そりゃあるでしょ、子ども皆いなくなったし

 

えー、じゃあ次奢ってもらお、私なんてこの前パスタくらいだったよ、いいなあ〜

やっぱり子どもには見栄張りたいのよ

 

そうなの笑

 

そうだよ、きっと

 

子どもはありがたく奢っていただきます

 

そうしなさい笑

 

 

 

 

 

 

 

心地よい時間が過ぎてゆく。

 

 

 

 

 

 

さっきのキムチすごい美味しかったわね、本当に

 

それ何回目?笑

 

良いのよ、本当に美味しかったんだから

写真撮ってくれた?

 

うん

 

じゃあそれあとでお姉ちゃんに見せてあげなさい

 

この前入らなかったのよ、ここ

 

姉ちゃんとよく会うの?

 

ときどき会ってるわよ~

 

えー、誘ってよ

 

だって返信よこさないじゃない

 

ですよね、すいません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーぼくは好きなことをやれているのだろうか。

 

 

やれている気もするし、やれていない気もする。

好きなことが何か、分かっている気もすれば、まだ見つかっていない気もする。

仕事上大義を語ったりすることも多いが、正直じぶんの人生に大義なんてものはこれっぽっちもない。

今日もやるべきことをして、妻が飯を食えて、うまい酒でも飲んで酔っぱらえればそれで良いのだ。充分しあわせだ。

 

 

そう言っていたい。思っていたい。

 

 

でもそれだけではいけない気もしている。

だから一生懸命働いてみている。

手伝いたいこと、助けたいひとがいて、そのためにデザインをしている。

 

小山薫堂さんの頑張っている姿を拝見すると、いつも胸が熱くなる。

これがしたい、と心から思ったりする。

あのひとは自分の仕事を「誰かの手助けをする仕事」と言っていた。

全く同じ言葉を使っていたものだから、とても嬉しかった。

きっと、本当に「好きなこと」はそういうことなんだろう。

もしかしたら好きなことを全然やれていないのかもしれない、とか思って焦る。

そんな不安を酒で押し流し、今必要なこと、できることをとにかくやっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ま、がんばんなさい、ほどほどに。

 

叔母はそう言って寝室に消えていった。 

 

 

 

 

 

そういえば桜に気を取られ、たらみを買わなかった。

何か飲もうと冷蔵庫を開けると、そこにはたらみと、ぼくが好きな飲むヨーグルトがあった。

 

 

 

 

結果、気ままに生きている。

 

気ままに日々が過ぎてゆく。

気まま、というのは良い言葉だ、と思う。

遠慮や気がねをせずに自分の思うままに行動すること。というのが原義らしい。

 

 

まぁ実際に果たしてそうなのだろうか。というところはさておきたい。

さておき、というのができるようになったことは、オトナになったことを実感するひとつの瞬間である。

 

 

前回の打ち合わせであれだけやりあっても、さておき今回の打ち合わせにしっかり臨むのである。

日常生活で妻に突っ込みたいことは山ほどあれど、さておき自分の仕事に集中するのである。

クライアントとの電話をしながら渋谷の路地に入ったときに不良にタバコを後ろから投げられてもさておくのである(実話)。

超怖かったのであるが、クライアントには何にもバレなかったのである。さておけたからである。

 

 

 

さておけるというのは、結局遠慮や気がねそのものじゃないか。

どうやらぼくは全然気ままじゃない。田舎住まいなのに。

田舎でも消耗している新しいイケハヤスタイルである。

 

 

ただ、それでも、特に気分がブレずにさておけるようになった。

気ままにさておけるのだ。

 

ここまできてアレだが、さておけるって何なんだ。というのはさておく。

 

怒ったり不快になるくらいなら、今この現状をどうしようかというところを精一杯楽しんだほうが良い。とかいう心持ちで今は仕事をしている。

妻との生活も、そうしようと意識している。

 

正義でばかり生きていると窮屈だ。

狭っ苦しい正義なんてさておき、敢えてアウトローに逃げるときもあって良い。

正義ですらさておいちゃうのだ。わ、オトナ。

 

 

 

 

飯を食っていくのは大変なことである。

でも、最悪飯が食えなくなっても良いと思っている。

そうでも思えなければ生きていてあんまり面白くない。

でも絶対にもう食いっぱぐれたくはない。

だから頑張るのである。

 

この矛盾の中にぼくは生きている。

こういう気持ちを全て、ごまかさずに感じていたい。

 

 

 

 

結果、ぼくは気ままに生きているのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

太りたいと常々思うのだが、食べれど食べれど全く体重は変わらない。

むしろステーキを450g食べた後に体重計に乗ると痩せていることさえある。

食べたカロリーよりも消化する際に使うカロリーの方が勝っているのだろうか。

いきなりステーキに足繁く通っているのに体重が落ちるなんてことがあって良いのだろうか。

太れるものも痩せるものも万人が同じ食卓を囲んで同じく太り、同じく痩せる、そんな世の中にならないものだろうか。

 

 

良く「食べないから痩せるんだよ」と言われる。きっとそれも正しいのだが、

その前に、食べても太れない故に食べることにモチベーションが湧かない問題があるのだ。

 

食べるのにもお金はかかる。沢山食べるのであればなおさらである。

食べて太れるのならいくらでも食べる。ただ、太れないのに食べる理由が分からない。

 

どうせ太れないなら、食べるなんていう行為は最低限生きていけるくらいの分で良いのだ。

 

 

なんて思ってしまうから、本当にダメだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ギターの音色に憧れて爪弾いてみるものの、憧れたあの音色は全然出せそうにない。

そりゃそうだ、と笑う。

 

それぞれ得手不得手というものがある。

やればできるというが間違いなくそれは嘘だろう。

 努力するだけで報われるような世の中だったら、この世の中は成功者だらけだ。

 

だけれども、その努力は意味のあるものか、などと外野から騒いでるのを見ると、アホかと思う。

 

意味のない努力かどうかはそのひとが決めるのだ。

人の努力が云々と言っている暇があったら今サボっている時間を有意義に使え、と思うのだが、これもまたきっと外野の意見なのであって、なかなか対話は難しい。相変わらずギターは上手くならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の武器とはなんだろうと最近思う。

考えれば考える程なにもない。

それではいかんと思って、ちょっと日常を離れて考えてみる機会をつくってみた。

 

都会の外に出て思ったことは

武器がないことはそれほど問題なのか、というひとつの疑問である。

 

 

周りにひとがたくさんいるものだから、ひとよりも何かで優れていないと途端に不安が生じてくる。

自分は何をやっているんだろう。周りのひとはあんなに自分の得意分野で秀でているのに。

 

ヨガとかそういうちょっと見直してみませんか、的な路線が昨今流行っているのも

そういった焦りや不安から生まれたひとつの流れだ。

 

でも、そんなに武器を持つことは重要事項なのだろうか。

なんのために?

 

 

 

 

兄ちゃん、どこから来たの

 

東京です

 

へえ、なんでまたこんなところに

 

プチ隠居です

 

へえ、そりゃまたご苦労なこって。んで悩んでると。

取り柄なんてなんにも無いけど俺は生きてるぞ、なんなら歯もねえし金もねえ

 

東京の人はすごいと思うけどな、幸せかは分からんぞ

 

こんななんもない田舎に来ないと時々やってられねえんだもんな、

自分の居場所にいて窮屈になっちまうんだから

 

 

 

まぁ確かにそうですね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やこちゃんとの結婚生活が始まってもう数年が経った。

紆余曲折を経て、あるひとつの現時点での答えに行き着いている。

幸せを相手に依存してはいけない、ということだ。

幸せな状態でいるからこそ、互いに互いを慈しむことができ、より良い関係を築けるんだと思う。

 

相手に依存していると、してもらうことが当たり前になってくる。

それはお互いにとって良くない意識である。

してあげることがお互いに当たり前になったら、そしてしてもらうことは当たり前ではないとお互いに思えたら、とても良い関係だと最近は思う。

 

但し、よほどの人格者でない限りは正直そんなひとはいない。

なので、お互いに幸せであることが大事なんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気ままに日々が過ぎてゆく。

 

時々こういう、棚卸しの時間は必要だ。

 

GW万歳。私は今週もずっと仕事で田舎で消耗しています。笑

 

 

 

甘い言葉って、いつの間にか、 ほろ苦い思い出になってたり、

 

 

 

 

 

その言葉は突然、ぼくの前に現れた。

とある喫茶店で、珈琲を飲んでいるときだった。

 

 

 

 

いつものようにパンを3つと珈琲。

先にパンを一通り食べてから、珈琲で一息つく。

 

 

 

最後の一口を飲んで、水を一口。

珈琲と水を交互に一口ずつ。これはいつからかの癖だ。

 

 

ふうっと束の間のいきぬきを楽しんでいるとき、ふとカップに目をやると

底に小さく、はんなり明朝体っぽい文字が書いてあった。

 

 

そんなところに字を書くのは天下一品くらいだと思っていた。

これまで見落としていたカップの底には、こう書いてあった。

 

 

 

 

 

 

 

甘い言葉って、いつの間にか、

ほろ苦い思い出になってたり。

 

 

 

 

 

 

 

やられた。

思わずあたりを見渡した。

久しぶりに息を呑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コトリ、とカップを傾ける。

もう中には何も残っておらず、底の方に珈琲の干からびた残り滓がへばりついている。

いつからこの動きを繰り返しているんだろう。

 

 

寂しい喉をどうにかしたい一心で、マスターが置いていった水をカプリと飲む。

握ったカップが行く当てを求めて空を彷徨う。

 

 

ちょっと前に出ていったあの子とはけっこううまくやっている気がしていた。

が、どうやらそう思っていたのはぼくだけであった。

 

 

こんなときにフレンチローストの珈琲は苦すぎる。

ありったけのミルクを注ぎ入れる。

こんなときくらいは、なるべく優しくして欲しい。

 

 

 

あのとき耳元で囁いてくれたその言葉は嘘ではなかったと、そうまだぼくは信じていたいのだが

珈琲の中でぐるぐる回りながら闇に溶けていくミルクを見ていると、そんな気持ちも飲み込まれて次第に消えていった。

 

 

 

なんだよそれ。

牛丼よりも高い珈琲を、一気に飲み干した。

そんなことはどうでもいいのに、そんなことをこんなときにも考えている。

きっとそういうところだよなあ。嗤う。

 

 

 

それが、今日のこれまでのハイライトである。

カップは案の定、いつまでたっても何にも話しかけてこない。

 

 

 

 

 

 

堪えきれずたまらずふいっと一息ついた。

いつからか浮かんでいるカップをテーブルに戻す。

窓を打つ雨音が強くなってきた。

外を歩くひとたちを見やると寒そうである。雪にでもなるのだろうか。

北海道ではひどい積雪らしい。今すぐにでも壊れそうなテレビで、半分埋まっている車を数人が押している。

 

 

 

 

そんなことはどうでもいい。

そう思ってふかすタバコは全くの無味だ。

宇多田ヒカルは最後のkissのフレイバーなんて本当に分かったのだろうか。

改めてあの曲の、あの人の凄さが分かった気がした。

 

 

 

甘い言葉を思い返せば、いくらでも蘇る。

触れる指先、湿ったスーツ。壊れた空調に、見もしない深夜番組。

熱気を纏いながらぼくらは相手を、互いを、そしてじぶんを確かめ合った。

何かに愛されている感覚が欲しくて、互いを求め合う。

 

 

今思えば、こういう思い出というのは決まっていつも受け身なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなことをときどき思い出す。

クソガキに毛が生えたような俄の大人には、いまだにこしょばゆい感覚が残る。

そんなときに喉を潤すものが酒になったことがありがたい。

あの頃は、どれだけ飲んだって忘れさせてくれるものではなかった。

 

 

 

 

 

 

甘い言葉って、いつの間にか、

ほろ苦い思い出になってたりするものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

告白して振られたことがあった。高校の時のことだ。

 

 

野球にそれまでの大半の時間をただただ費やしてきたじぶんにとって

それまで好きな人というのはあくまで憧れの対象であって

何か思いを伝えるような存在ではなかった。

 

 

それが恋というものだということを

何かできっと学んだのであろう。

純粋な自分は、気持ちを伝えることを決意した。

 

 

ただただ緊張したことしか覚えていない。

いざその場面になったときに、考えていたことばなんてものはたぶんぜんぶ吹っ飛んでしまったし

寒かったのか、暑かったのかも、日が出ていたのかも、もう夜だったのかも覚えていない。

覚えていることは、もともと、負けの見えていた勝負だったということだ。

そして、そのあと言われた「ありがとう、嬉しいです」という言葉。

 

 

それで充分であった。

 

 

その帰りは、少し背伸びをしてカフェに寄った。

珈琲の美味しさはまだ分からなかったが、なぜか苦手なココアを飲んだ。

まだ少し痺れているような高揚感の中、ついさっきの出来事が頭の中を反芻していた。

このときのココアは美味かった、と言いたい。

 

 

 

 

 

あのとき伝えたことばって、きっと、すごいエネルギーを持っていたと思う。

あのときの情熱は、自分にとっては原点である。

 

 

 

 

 

あのときのぼくは、それでもやっぱり輝いていたし

あのときに負けたくないから、ずっと青春しながらこれからも生きていたいんだと、そう思う。

 

 

 

 

それぞれの輝き方があるというが、

結局は好きなことに全力で苦しんでる姿が、いちばんそそる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カッコいいのである、カッコ悪さが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甘い言葉って、いつの間にか、ほろ苦い思い出になってたり、

 

ほろ苦い思い出って、いつの間にか、愛おしさを孕んでいたり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コトリ、とカップを傾ける。

もう中には何も残っていないのに、底に見えるその文字が、なぜだかとてもカップを温かく感じさせた。

 

 

 

ほんとはずっと、うらやましい

 

「顔が良いけど性格が悪い」という理由で悩んでいる

 

 

という話題で大学生の男女が話していた。

 

 

 

 

 

 

 

ただ単純に、すごいと感心した。

この男、じぶんの顔が良いと確信していた。

 

 

 

すごい会話をしているなあと、ふと目をやって、もっと驚いた。

ぼくだったら確信を持てない顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

その奥の席のお姉さんと目が合った。

たぶん、同じことを思っていた。

軽く会釈した。

 

 

 

 

 

大学生よ、これがオトナである。

 

 

 

 

 

 

 

 

兎にも角にも、驚いた。

大学生は、可能性に溢れているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時間が過ぎるのが早い。

ゆっくり過ごしたいと思う。

 

デザインに、ライティングに、持っている足りない知見や知識を最大限振り絞って生きている日々。

 

どれだけ知識をじぶんに取り込んで仕事に臨んでも、当然のことながら、先輩方は軽くその上をいく。

 

経験に勝るものはないと、どれだけ準備して挑んでも簡単に状況が変わる現場に出るたびに思う。

 

もっと余裕を持って生きていたいと、思い続けて何年になるだろうか。

あと何十年、そう思って生きていくのだろうか。

 

 

 

 

 

つい先日の休みに、久しぶりに、研いだ後米を寝かせ、快速でない設定でご飯を炊いた。

炊けるまでの時間、とてもゆっくりとした時間が流れた。

 

 

米が炊ける匂いを感じたのは、いつぶりだろう。

 

 

 

 

 

 

こういう時間を過ごしていくためにどうしていけば良いのか

そう考え続けて、その実現のために日々忙殺されている。

 

 

 

 

 

 

先述のコーヒーの話もそうだが、束の間の休憩時間がとても好きだ。

その瞬間だけ、素直にじぶんを認められる気がする。

 

即ち、今この時間、この文章。これはリアルなじぶんであり

何も気を遣わない、何に対しても防御していないぼくである。

 

 

 

 

ふだんは違う。家以外では、常に臨戦態勢である。

いつなん時、何が降りかかってくるかわからない。

ぼくは狩りに出ているのである。

 

 

 

 

今隣りで話している、カップルでもないけどお互いに

付き合おうとどちらかが言えば即刻付き合うだろう、

ただ単純に会っただけなのに「密会」とふたりで喜んでいるこの男女は。

 

 

 

羨ましいくらいに気が抜けている。

ぐでたまとかそんなレベルではない。

よくこんな人間の密集地で、ぬけぬけとそんな恥ずかしい話ができるな、と。

これは、ぼくには真似できない荒技である。

 

 

 

 

 

 

 

 

怖さを覚えてしまうと、ひとの動きは鈍くなる。

ただ、そこを越えると、怖さは武器になる。

 

そこまでいける人間がどれだけいるかといえば、それほどいない。

 

 

 

 

 

 

 

「これで良いのか」というじぶんと「これで良いのだ」というじぶんと。

これをどちらかに絞るというのは難しい。

 

 

絞ったところで、どちらかが完全に消えることが無いから、その後の付き合い方も難しい。

 

 

 

どちらかというと、日々の生活レベルでは後者を選択したほうがなんとなく楽なものだから

そうしているひとは多い。

 

 

 

 

大きなマクロの選択ではそういう選択をするのだが

小さいミクロの部分では、意外と前者が多いのもおもしろい。

日本人は、本当によく働く。

 

 

 

どこに線を引くのかは本人の自由である。

ひとの線を変えようとすることも、そこには無頓着になりじぶんに目を向けることも

線を消すのか、越えるのか、守るのか、関わらないのか

 

 

それも本人の自由である。そこにはなんの拘束力もない。

 

 

こう考えるじぶんの価値観もまた、線である。

 

 

 

 

よくデザインとアートは別物と思って仕事をしているが

それこそまさに先人が引き、またじぶんが乗っかった線である。

 

 

 

 

 

格好をつけてデザインを仕事にしていると述べたところで。

正直どんな御託を並べたところで。

 

今までのどんな人力のデザインやアート作品よりも、

一発のスカイダイビングや自然の景色を見た瞬間の方が、心動かされている。

 

 

 

 

 

そんなのどうでも良いんですよ、と言って何処かへ行ってしまいたい気分にも多々なる。

それをぐっとこらえて、徹夜で仕上げた作品をゼロベースにした相手を納得させるべく、再度歯を食いしばるのだ。

 

 

 

 

 

 

大学生よ、君たちのほうがずっと人生は楽だ。

個人的には、絶対そっちの方が楽しいと思ったりもする。

 

 

 

できればずっと、海に浮かんで生きていたい人生だった。

 

 

 

ずっとそうだと飽きるよ、という人もいる。

いやいや、絶対海にずっと浮かんでられる。

好きだから。

 

 

 

仕事なんて本当は全然したくない。

宝くじが当たったら即刻辞める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

差別はダメだ、遠くの国へワクチンを届けたい。

そうだ、駅前で叫ぼう、募金活動をしよう。

 

 

それで動くほど、世の中は単純じゃない。世の大人たちはそんなに優しくない。

 

けれど、本来それが良いのだということも、なんとなく分かっている気がする。

 

大人たちは、真っ直ぐすぎる君たちに、妬いているのだ。

こんな良い年になっても。ずっと羨ましいのだ。

 

 

 

 

 

 

ぼくも、アートが羨ましい。圧倒的な芸術は、どんなデザインよりも美しいと思う。

ぼくには自分で生み出す力がない。だから、デザインなのである。

 

 

絶対に、アートの方が、ひとの心を動かすのである。

それは明白な事実すぎて、目を背けることしかできない。

そこに目を向けてしまったら、ぼくはぼくでいられなくなる気がする。

 

 

 

 

 

自称顔が良い大学生男のとなりでこんなことを書いているなんてことを彼は知るはずもなく

ずっとくだらないことを話している。そろそろ鏡を見たらどうだろうか。

 

 

韓流系だよね、と良く言われる、と言っている。

 

 

わかる、わかるぞ。

ぼくも良く言われた。

 

 

それは、一重の男に対してかけられる精一杯の褒め言葉だ。

まともに受けてはいけない。やめろ、その嬉しそうな顔。

 

 

 

 

いきぬきの時間は終わりだ。

オトナは仕事に戻るのだ。

 

 

 

ああ、羨ましい。

本当の楽しさは仕事にあるとか、色々言ったとて

結局いちばんのいきぬきは、「そういうところ」にあるのだ。

 

 

 

そうなれなかった人間が、「オトナになった」とか言い出したんだろう。

 

 

 

そういう、悲しいオトナにはなりたくない。

 

 

 

 

 

 

なんて思いつつも、現実は待っちゃくれない。

後ろに目もくれず突き進んでいく。

 

 

 

 

 

さて、もうちょっとがんばります。

 

この「もうちょっと」の積み重ねで、辛うじてぼくは

理想の背中がまだ見えるくらいの現実を走っているのだ。

 

 

 

 

まだ9時、背番号27

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じぶんの歳を3で割ると

それがじぶんの人生における時間らしい。

 

 

 

そのことばに出会ったのは

ぼくが7時の頃だった。

 

 

 

 

 

age is just a number.

 

 

そのことばに出会ったのもまた

確かそのくらい、21番だったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じぶんの歳とはなんなのだ」

 

 

そう思ったのは朝5時半頃だったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜに

 

ちょっと早く生まれたひとに、たった30分で

敬語を使って、こき使われなきゃいけないんだ

 

 

おかしい世の中だよな、なんて

野球のグラウンドで思っていた気がする。笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

少し時間がたって

それはただじぶんの実力不足だと気付いたのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じぶんの歳。

 

 

オトナというものになったのか。

いやいや、そんなことはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

age is just a number.

 

 

確かにそう思う。

ひとは年齢じゃない気がする。

 

 

 

周りの人間を見ていると

実にたくさんの種類のひとがいるからだ。

 

 

 

27番という数字のひとだけを見ても、だ。

 

そのくくりにまとめるのが申し訳ないくらいに。

 

 

 

 

ただ、関係ねえよ!

ともかんたんに言いたくもないのだ。

 

 

 

失っていくものがあれば

得るものがある。確実に。

 

 

朝9時の、まさにこれから1日がはじまるじぶんと

ただ27番のじぶんとでは

 

なんだか顔つきが変わってくるのだ。

 

 

 

積もるものは、確実にあるし

 

 

まだまだこれからだとも、思っていたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一応、一般的に、脂ののってきた年になってきた。

 

可愛がってくれる諸先輩からの叱咤激励をいただく日々。

 

 

 

 

 

 

学生の頃のじぶんから見たら

 

27の男というのはまさに立派なオトナだった。

 

 

自立して仕事に邁進し、社会の役に立ち、

 

 

 

 

ただ、こうしてなってみると、

なんのことはない、クソガキが体だけ大きくなっただけである。

 

 

 

 

 

 

 

何しろ、まだ朝9時である。

 

 

 

 

 

 

 

 

校長先生が話し始めたくらいの時間である。

みなさんが静かになるまでにまだ5分かかるくらいである。

 

 

 

 

 

 

 

なってみると、全然思ってた格好良さじゃない。

 

 

もしかして、ずっと、そうなのだろうか。

 

 

 

 

 

夕方になったとき、どう思うのだろう。

 

親父は、今まさにそこらへんだ。

今度、飲んだときに聞いてみたい。

一体、今このときに、どんなことを考えているんだろう。

 

 

 

 

これから、また違う夜の楽しみが待っているのだろうが

 

それが終われば、1日も、もうそろそろ終わりだ。

終わりを考える年だ。

 

 

 

 

その時も、まだそう思っているのだろうか。

描いていた夢のそのときには、追いついていないのだろうか。

 

 

 

年の功というが、積み重なったものが、いつ役に立つのだろう。

 

 

 

上には上がいる、と思わなくなる日が来るのだろうか。

上はもういないときに、人はどう思うんだろう。

 

上と下の線引きが、無くなることが「積み重ねる」ことで学ぶことなのだろうか。

 

 

 

朝9時のぼくにはわからない。

まだ朝飯しか食べていないから、〆のラーメンの美味さは分からない。

 

 

 

 

 

 

そういえば、じいさんはもう80を超えている。

 

3で割ったらもう2日目だ。

もう、ご健在の同世代の方が少ない。

 

それでも、「●●さんはいくつになったけど元気だな、まだ頑張らなきゃな」

 

と言っていた。

 

 

 

 

上には上が、いるらしい。

 

 

 

 

 

 

考えても無駄なことを、どうして人は考えるんだろう。

 

 

そのときにしか、楽しいという感情は生まれないから、だと思う。

 

 

 

 

 

どうまとめたら、今回の酔っ払いの戯言は着地するだろうか。

 

 

そんな無茶なことを考えている今このときのために、ぼくはたぶん稼いでいる。

 

 

 

 

 

 

こういう感じ、心底書いていて曖昧だと思うのだが、これを

 

 

いつになっても感じていたいものだと、思う。

 

 

 

 

 

 

もう今この時しか背負えない27という数字を、取り返せない時間を

 

精一杯生きよう、そうしよう、と

 

 

 

目の前の熟成酒から無理に妙なインスピレーションを感じようとするのだが

 

酔っ払いには無理だった。

 

 

 

ほんとうに、それだけか。

 

 

デザインというしごとについて、よく考える。

 

 

 

ぼくは、どんなことで飯を食っているのか。

 

 

 

特段、何かを後世に残したい、とか

そういった大きなことは考えていない。

 

 

 

それでも、誰かに何かを提供することでたぶん、ぼくは多少は飯を食えている。

 

 

 

 

 

考え出すと止まらないくせがあって

 

 

ときどきこうやって外に出していかないと

ほんとうに今、考えるべきことがおざなりになってしまいそうなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

デザイナーのやっているしごとって、なんなんだろう。

ここをしっかりと捉えられているひとは、どのくらいいるんだろう。

 

 

 

 

 

 

デザインというのは、特に制作物ありきの職業だと、根本思う。

 

 

 

ただ、その「制作物」を、どこまでと定義しているのか。

 

各々のデザイナーのその考え方について、最近とっても気になるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近「名刺をデザインする」おしごとがあった。

 

 

基本的に、まずはヒアリングを行い、

どんな情報を盛り込んで、どんなデザインにするか話し合い、

まとめ、提案を行い、修正を何回か重ねたのち、納品する。

 

 

 

ぼくが気にしているのは、その際に、

「どこまで相手と語れるか」ということだ。

デザインの「良し悪し」は、そこで9割が決まると思っている。

 

 

 

 

カッコいいデザインにすることはカンタンだ。

そんなものは今の時代、参考にすべきもので溢れている。

デザインというのは、だいたいが既存のものの組み合わせだ。

 

 

一般的な「良いデザイン」の定義それ自体が、

もはや、やもすれば「良いもの」ではないのかもしれない。

そんなこともけっこう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんななかで、

 

「名刺をデザインする。」

 

この行為が含んでいることは何か。

 

 

 

 

 

 

デザインがカッコいいこと。

情報が漏れなく含まれていること。

 

 

 

 

 

ほんとうにそれだけか。

 

 

 

 

 

 

もう少し踏み込んで、個人の、組織の理念の要素が盛り込まれていること。

 

 

 

 

 

ほんとうにそれでイナフなのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名刺の存在意義ってなんなのか。

 

 

 

 

 

名刺って、

そのひとの分身ともいうべき、大切なものなんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

その名刺を見て、

そのひとの「人となり」を、しごとに対する「情熱」を、

しごとを通して実現したい「世界」を、その先にある「希望」を感じること。

 

 

それが、名刺の意味なんだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

そもそも、名刺って、見るだけなのか。

触ることでも、感じられるものがきっとある。と、思う。

 

 

 

 

 

そして、その名刺を渡す本人の感情。

名刺を渡すときに、その名刺をあらゆる面で自信を持って渡せること。

しごとに対する思い、それが込められた名刺に心から誇りを持てること。

 

 

 

 

ぼくは、ひとつの「名刺をデザインする」という行為の中に、ここまで含みたい。

 

 

 

 

 

 

たぶん、名刺が背負っているものって、とても重い。

名刺だけじゃない。

 

 

 

デザイナーが扱うすべての制作物が背負っている責任は

本来、とてつもなく重い。はずである。

 

 

 

 

 

 

 

そこを、考えられているデザイナーは、どれだけいるんだろう。

 

 

 

 

思いを形にするという「重さ」、その本当の「重さ」を感じ、

その上で楽しめているデザイナーは、どれだけいるんだろう。

 

 

 

 

 

どこかで見たことのあるストックから、オシャレっぽいものを引っ張り出して

PCばかりいじっているようでは、ぼくはだめだと思う。

 

 

 

ひとの働き方とか、とやかく言うつもりはないが、

「ひとの思い」を「じぶんの好き」に落とし込んで制作物を示す

自分勝手なデザイナーによく遭遇する。

 

 

それではオペレーターだと、ぼくは思う。

どこかで見て「なんとなく良い」と思った誰かのデザインを再現しているだけなのでは。

 

 

 

やるべきことは、見た目ではない。

もっと奥底の、深い部分で、デザイナーは悩まなくちゃいけないんだと思う。

 

 

 

 

 

修正回数何回まで。

よくこういう契約の仕方もあるが、

基本的にそんな仕事は請けない。

 

 

 

修正回数は何回でも良い。

その代わり、タイマンでガッツリ決裁者と話したい。

 

 

一緒に、この制作物で伝えたいことを心底考えたい。

 

 

デザインは、本来そこからはじまるものだと

ぼくはそう定義している。

 

 

 

しごとのうち、PCを触るのは最後の1割くらいだ。

 

考えること。それがしごとだと思っている。

 

 

 

 

その、名刺においても、通常ではたぶんありえない回数の修正をした。

でも、クライアントの方は、近しい人も含め、

じぶんがしごとで何を実現していきたいのか

この名刺から、何を感じて欲しいのか

といったことを、心底考えてくれた。

 

まさに、今回の仕事で、ぼくが意図したことを感じてくれたと思っている。

名刺の見た目のデザインなんてものは、デザインというしごとのほんの一部だ。

 

 

 

 

これからどういう姿勢でしごとをしていくべきなのか

あのひとは、この名刺を見るたびに、きっと思う。

 

 

 

 

そうして渡す名刺には、思いがこもっている。

きっと、渡す姿勢も、表情も、変わってくる。

 

 

 

 

 

 

デザインにやれるこ、やるべきことは、こういうことなんだと思う。

制作物がうまれるまでの過程で、デザインすべきことがたくさんあるはずだ。

 

 

 

そこを怠ったデザインは、ただの消費物だ。

一瞬ひとの心に刺さったとしても、残らない。

 

 

ぼくは、そんなものをつくるデザイナーにはなりたくない。

生み出すものすべてに誇りを持っていたい。

 

 

人生が変わる、と言っては大げさかもしれないが、

人生の棚卸し、これから踏み出す一歩、様々な場面に寄り添う

制作物をつくっていられていることに大きな幸せを感じている。

 

 

 

 

 

暑苦しい、めんどくさい性格である。

もうちょっと、気の抜けた性分でありたかったものである。

 

 

 

でも、こう生まれてしまったので仕方ない。

もうしばらく、お付き合いいただきたい。じぶんよ。

 

HAPPINESS COMES FROM GOOD COFFEE.

 

「HAPPINESS COMES FROM GOOD COFFEE.」

 

 

 

 

この言葉だけで、先日ぼくはとある雑誌を手に取り、レジに並び

家に帰り、パラパラとページをめくり、ひとしきり満足し

 

 

買ったことも忘れ、また今まさに同じ雑誌を書店で手に取り

同じ言葉に惹かれ、レジに並び

 

 

そういえば買ったことに気づき

雑誌を元に戻し

 

 

自分の行動にバカだなあと呆れ、笑い

 

 

ラーメン屋の暖簾を無意識に潜り

ついさっき昼にここに来たことに気づき

 

さっき来たやんと自分にツッコミを入れ

笑えないな、と危機感を感じ

 

また新たな気持ちで一歩を踏み出し

丸ノ内線で逆方面行きに乗るのです。

 

 

 

 

そんなやばい日にも

COFFEEを飲めばHAPPINESSがCOMEするのです。

 

 

 

人生というのは分かりません。未だに。

ここまでの文章を見て、筆者の文章力に愕然とした方は

そっとこのページをお閉じくださいませ。

 

 

これ以上のものは出て来ません。

 

 

 

 

 

 

 

というのは冗談で

(文章力は冗談じゃございません)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここのところ、たくさんの方と仕事でお話をさせていただいたり

人前で話すことが増えたので、感じることがあります。

 

 

 

 

人との向き合い方、についてです。

 

 

 

 

ぼくに大切なことを教えてくれた人がいます。

ウェディングをはじめ、本質的な仕事を追求することで有名な

クレイジーという会社の、山川咲さん、という人です。

 

しばらく、その会社に丁稚としてお世話になっていました。

 

そのときに、ぼくに

 

受け容れること

進化すること

オープンになること

 

という、いま最も日々大切にしているひととしての在り方を教えてくれた方です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今でも忘れません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まさに日々走り受けていた時期、ぼくはあまりの忙しさに文字通り心を失っていて

本質的であることを追求することができずにいました。

 

 

 

ぼくなんかよりもずっと忙しく動き回っていた咲さんが

そんなぼくの状態に気づき、連絡をくれました。

 

 

 

 

 

 

大丈夫?話聞くよ

 

 

 

 

 

 

 

その咲さんの優しさに気付ける余裕すらなかったぼくは

最初確か、せっかくのお誘いを、業務を理由に断った気がします。

 

 

そのあと、 

 

どれだけがんばっても終わらない作業への折り合いがつけられずにいたぼくは

いい機会だと思い、改めてお約束をさせてもらったのです。

 

 

 

それでも、咲さんは特に何も言わず、二つ返事で了承してくれました。

 

 

 

神楽坂の喫茶店に入り、随分と長い時間、話しました。

 

 

 

 

 

 

あのひとの聞く力はすごい。

聞くことを仕事にしてからも、本当に強くそう思います。

 

 

 

 

 

 

様々な整理しきれない思いをそのまま伝えました。

その喫茶店で、真昼間から泣いたのを覚えています。

 

顔を上げると、咲さんも泣いていました。

これには、本当に驚きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

そのあと、咲さんに言われてまさに

ぐうの音も出なかった言葉があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたが自分のことを諦めても、わたしはあなたを諦めない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それまでのぼくは、ひとはひとだと思っていましたし

変わりたくないというひとを変える必要もない、と思っていました。

 

 

 

正直、今もそう思っています。

 

 

 

 

ただ、大前提「変わりたくないひとなんていない」ということを

咲さんは教えてくれました。

 

 

 

 

「ありのままでいい」「このままでいい」

というのは「変わらなくていい」と同義ではないのです。

 

 

 

 

変わらなくていい、というのは

何かを諦めてしまっている場合が多い。

 

 

 

 

不安や恐れ、怖さから、本来向き合うべきところから目をそらしてしまっているひとを多く見ます。

 

 

 

 

 

これでいい、と口では言っていても、実際に話を聞いていくと

本当の思いが出てくるのです。

 

本当はこうしたい、でもどうせ無理。自分にはできないだろう。

 

 

 

 

 

 

ぼくの経験上、そこに向き合うことは大変なことです。

プライドがズタズタになります。

 

 

 

本来、そのプライドもほとんどの場合くだらないものなのですが。

 

 

 

ですが、そこと向き合った時に初めて、

手っ取り早く「幸せ」になれると思います。

 

 

 

 

自分に何か嘘をついていると

ひとに優しくできません。

嫉妬という感情が出てくるからです。

ひとの幸せを素直に喜ぶことができません。

 

 

 

 

ぼくと働きたいと、仕事がしたいと言ってくれるひとに対して

ぼくに将来について相談をしてくれるひとに対して

 

 

ぼくは適当なことは言えません。

半端な優しさを持って接することもできませんし

本当にそのひとのためを思って接するようにしています。

 

 

 

 

その思いの根底にあるのは

「あなたが自分のことを諦めても、わたしはあなたを諦めない」

という、咲さんの言葉です。

 

 

 

究極のお節介ですが、

ぼくはそうひとと関わっていたい。

大切なひとには、本当に幸せになってもらいたいから。

 

 

 

 

 

「私はこれで幸せなんだ」という気持ちは

何かを諦めてしまっていることが多い。

ぼく自身がそうだったのでよく分かります。

 

 

 

 

心の底からそう思っているひとは

ひとの幸せに嫉妬しません。

多くを望まない人生「が」良いと思っているからです。

それ「で」良いと思っているひとは、どこかで折り合いをつけて、嘘をついています。

 

 

 

ひとは誰しも、才能を持って生まれて来ていると信じています。

それを探すことを妥協するのは、心からもったいない。そう思ったりします。

 

 

じぶんが最高な状態で人生を送ることができるのに、

そのチャンスを諦めることは、すごく悲しい。

 

 

 

大切なひとはもちろんですが、

 

 

 

 

妻が、今それを探そうと頑張っていること

それを応援するのがぼくの生き甲斐です。

 

 

 

 

それがぼくの人生でやりたいことなんだと思っています。

夫であること、応援者であることは

ぼくの天職なんだと勝手に信じています。

 

 

だから、デザイナーという仕事は、本当にやりたいことなんだと

主観的に見ても、客観的に見ても、思います。

 

 

 

 

 

 

 

コーヒーを頂きつつ、そんなことをつらつらと書いています。

 

 

最近大変なことが起こってわたわたとしていましたが、

じぶんのしあわせはこれだ、と強く思うことに対して

周りのみなさんのお力を拝借しつつ、心の底から向き合ったおかげで

少しずつ、良い流れになってきているのかな、と感じています。

 

 

 

 

 

HAPPINESS COMES FROM GOOD COFFEE。まさに。

こういう、じんわりと緩やかなしあわせのとなりには、いつもコーヒーがある気がします。