1人と1匹のいきぬき

背伸びして棚に上げています。二日酔いが常。

甘い言葉って、いつの間にか、 ほろ苦い思い出になってたり、

 

 

 

 

 

その言葉は突然、ぼくの前に現れた。

とある喫茶店で、珈琲を飲んでいるときだった。

 

 

 

 

いつものようにパンを3つと珈琲。

先にパンを一通り食べてから、珈琲で一息つく。

 

 

 

最後の一口を飲んで、水を一口。

珈琲と水を交互に一口ずつ。これはいつからかの癖だ。

 

 

ふうっと束の間のいきぬきを楽しんでいるとき、ふとカップに目をやると

底に小さく、はんなり明朝体っぽい文字が書いてあった。

 

 

そんなところに字を書くのは天下一品くらいだと思っていた。

これまで見落としていたカップの底には、こう書いてあった。

 

 

 

 

 

 

 

甘い言葉って、いつの間にか、

ほろ苦い思い出になってたり。

 

 

 

 

 

 

 

やられた。

思わずあたりを見渡した。

久しぶりに息を呑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コトリ、とカップを傾ける。

もう中には何も残っておらず、底の方に珈琲の干からびた残り滓がへばりついている。

いつからこの動きを繰り返しているんだろう。

 

 

寂しい喉をどうにかしたい一心で、マスターが置いていった水をカプリと飲む。

握ったカップが行く当てを求めて空を彷徨う。

 

 

ちょっと前に出ていったあの子とはけっこううまくやっている気がしていた。

が、どうやらそう思っていたのはぼくだけであった。

 

 

こんなときにフレンチローストの珈琲は苦すぎる。

ありったけのミルクを注ぎ入れる。

こんなときくらいは、なるべく優しくして欲しい。

 

 

 

あのとき耳元で囁いてくれたその言葉は嘘ではなかったと、そうまだぼくは信じていたいのだが

珈琲の中でぐるぐる回りながら闇に溶けていくミルクを見ていると、そんな気持ちも飲み込まれて次第に消えていった。

 

 

 

なんだよそれ。

牛丼よりも高い珈琲を、一気に飲み干した。

そんなことはどうでもいいのに、そんなことをこんなときにも考えている。

きっとそういうところだよなあ。嗤う。

 

 

 

それが、今日のこれまでのハイライトである。

カップは案の定、いつまでたっても何にも話しかけてこない。

 

 

 

 

 

 

堪えきれずたまらずふいっと一息ついた。

いつからか浮かんでいるカップをテーブルに戻す。

窓を打つ雨音が強くなってきた。

外を歩くひとたちを見やると寒そうである。雪にでもなるのだろうか。

北海道ではひどい積雪らしい。今すぐにでも壊れそうなテレビで、半分埋まっている車を数人が押している。

 

 

 

 

そんなことはどうでもいい。

そう思ってふかすタバコは全くの無味だ。

宇多田ヒカルは最後のkissのフレイバーなんて本当に分かったのだろうか。

改めてあの曲の、あの人の凄さが分かった気がした。

 

 

 

甘い言葉を思い返せば、いくらでも蘇る。

触れる指先、湿ったスーツ。壊れた空調に、見もしない深夜番組。

熱気を纏いながらぼくらは相手を、互いを、そしてじぶんを確かめ合った。

何かに愛されている感覚が欲しくて、互いを求め合う。

 

 

今思えば、こういう思い出というのは決まっていつも受け身なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなことをときどき思い出す。

クソガキに毛が生えたような俄の大人には、いまだにこしょばゆい感覚が残る。

そんなときに喉を潤すものが酒になったことがありがたい。

あの頃は、どれだけ飲んだって忘れさせてくれるものではなかった。

 

 

 

 

 

 

甘い言葉って、いつの間にか、

ほろ苦い思い出になってたりするものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

告白して振られたことがあった。高校の時のことだ。

 

 

野球にそれまでの大半の時間をただただ費やしてきたじぶんにとって

それまで好きな人というのはあくまで憧れの対象であって

何か思いを伝えるような存在ではなかった。

 

 

それが恋というものだということを

何かできっと学んだのであろう。

純粋な自分は、気持ちを伝えることを決意した。

 

 

ただただ緊張したことしか覚えていない。

いざその場面になったときに、考えていたことばなんてものはたぶんぜんぶ吹っ飛んでしまったし

寒かったのか、暑かったのかも、日が出ていたのかも、もう夜だったのかも覚えていない。

覚えていることは、もともと、負けの見えていた勝負だったということだ。

そして、そのあと言われた「ありがとう、嬉しいです」という言葉。

 

 

それで充分であった。

 

 

その帰りは、少し背伸びをしてカフェに寄った。

珈琲の美味しさはまだ分からなかったが、なぜか苦手なココアを飲んだ。

まだ少し痺れているような高揚感の中、ついさっきの出来事が頭の中を反芻していた。

このときのココアは美味かった、と言いたい。

 

 

 

 

 

あのとき伝えたことばって、きっと、すごいエネルギーを持っていたと思う。

あのときの情熱は、自分にとっては原点である。

 

 

 

 

 

あのときのぼくは、それでもやっぱり輝いていたし

あのときに負けたくないから、ずっと青春しながらこれからも生きていたいんだと、そう思う。

 

 

 

 

それぞれの輝き方があるというが、

結局は好きなことに全力で苦しんでる姿が、いちばんそそる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カッコいいのである、カッコ悪さが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

甘い言葉って、いつの間にか、ほろ苦い思い出になってたり、

 

ほろ苦い思い出って、いつの間にか、愛おしさを孕んでいたり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コトリ、とカップを傾ける。

もう中には何も残っていないのに、底に見えるその文字が、なぜだかとてもカップを温かく感じさせた。