結果、予想通りに不合理
新宿の電波が悪いのは、人が多いからだろうか。
そういえば昨年の12月にまだ紅葉が訪れていなかったのは、温暖化というやつの影響なのだろうか。
バナナの各所による値段差が激しすぎる。肉のハナマサは素晴らしい。
壁側を向いて立っているだけの男性を見ると立ちションだと思って身構えてしまうのはぼくだけだろうか。特に渋谷の宮坂パークから青山に上がっていくエリア。
ホームレスだってキレイ好きはいる。そう、そういう集落のエリアでそこにいる人と少し話して思った。ぼくより高いシャンプーを使っていた。
父に「かっこいいアーティスト見つけたぞ」と教えてもらったアーティストがエド・シーランだった。
化石かよ、とそのときは笑ったが、最近自分がハマったアーティストを友人に紹介したら「それ超有名な人だよ」と言われた。親子揃って化石かよ。「かよ」つながりだが、「こんな夜更けにバナナかよ」はおもしろい。「かよつながり」ってなんだ。わからない。ついでにバナナも伏線回収。できてない。
YahooとLINEが資本提携するというニュースが深夜のSNSを賑わせたことがあった。
資本提携そのものへの驚きのコメントの中、「誰がリークしたのか」という議論が最も多くの関心を呼んでいた。
犯人探しが好きな我々。ウォーリーをさがせが流行るわけだ。
闇雲に動いてもろくなことがない。
求めすぎても良いことなんてない。
「手に入らないこと、失うことが怖いのだ。」
程良く。適当に。ある程度。
丁寧に生きる、という言葉が
甘えに聞こえることが多々ある。
自分の欲求に忠実になる、とか
好きなことを仕事にする、とか
ストレスを与えない生活、とか
アホか、と思う。
いくつか、大切にしている言葉を紹介したい。
「楽しいんじゃなく、楽しくする」
大体の人がそうだと思うが、、仕事を楽しいと思うことって少ない。ぼくに至っては99.9999%くらいはやばい、どうしよ、死ぬ、この3つくらいの感情で埋め尽くされている。
クライアントの笑顔を見た瞬間に全てが報われるなどと言う人がいたがどれだけ徳を積めばそういう発想に行き着くのだろう。その人の笑顔を見ながら、ぼくは別案件の明後日までの提出物のことを考えているのである。早く事務所帰りたい。
「楽しい君」は、あちらからやっては来ない。
何事も楽しくする、という姿勢が必要なのである。
それはある種、バカになる、というのだろうか。
「自分の救いになることを仕事にする」
モノの言い方、捉え方の話だが、「好きなことを仕事にする」ということはなかなかこの年になって思うが持続可能性が低い。仕事にして好きでい続けることは、とても憧れるが、結構難儀だ。
人生で一番長い時間を費やすことだからこそ、それを好きでい続けたいし、それが無いと生きていけないものにしていたい。そう思ったとき、それは「好きなこと」なのではなく「救いになるもの」の方が良い。
それをすることで救われること。自分が自分でいられるもの。それはやもすれば好きなこと、とほぼほぼ同義なのかもしれないが、そこにはなにか無条件の大きな優しさが含まれている。
「じぶんとの約束を守る」
人は人との約束に固執しすぎだ。それは当然なのだが、自分ともっと向き合ったほうが良い。これは誰でも無く自分自身に言っているのだが、自分ともっと積極的に約束をしたほうが良い。それを日々クリアしていくことで、「自分自身に対する信頼」を積み重ねるのだ。自分自身に対する信頼こそが「自信」だ。
この3年間、自分とは別に「法人」という別人格を持つようになり、走り続けてきた。
曲がりなりにも様々な経験をし、大きく価値観の変わったこの3年間を振り返りたい思いに駆られて、今、パソコンに向かっている。
打ちたい内容を思い出した順に打ってみているが、これは敢えてこのままでも良いんじゃないかと急に面倒になって巨匠アーティストみたいなことを言ってみている午前3時である。
しかし3年ぶりの更新である。
前回のブログで書いた痔はすっかり良くなったものの、もしこの空白の3年の間にこのブログを訪れていた方がいた場合、彼らはぼくの痔の状況が気になって夜も眠れない2年間を過ごしていたということになる(ならない)。
とにかく、久しぶりにこのページを開いている。
この3年間、全ての状況が変わった。未だ変遷の途中、と言った方が正しいかもしれない。
様々なことに対する価値観、価値、ライフスタイルが一変した。
「コロナ」によるものが大きいことは明白である。
これまでの時間の在り方が一変し、何に時間を、お金を割いていくのか。
何が幸せなのか、という、これまではある程度拠り所のあった価値観が一気に崩れ去った。
コロナの一連の騒動の中で思ったことや変わったことについて。
Instagramのストーリーに載せるには感覚的にキモい。
そんな行き場がなく外に出すことのできない気持ちをここに記している。既にキモい自覚はある。
コロナで仕事がなくなった、国が保証しろ、云々、死ぬほど周りで聞いた。私も、一度コロナで仕事の大部分を失ったうちのひとりである。
コロナごときに仕事を奪われるような仕事をしていた自分が甘かった。
それだけの話。
働いていればお金が入ってくる。
そもそもその前提がおかしい。
本来、お金を作らなければお金は入ってこないのだ。これは至極当然の話。
誰でも替えのきく仕事をしているにも関わらず、
仕事を奪われたときに自分の実力不足を疑わない人のなんと多いことよ。
コロナをきっかけに、これから、仕事に対して、自分のやれることに対して、もっと真摯に向き合わなければならない人が増えるんだと思う。自分含め。
もう大方収まってきた印象だが、昨年の半ばまでは外出が大きく制限され、好きなところへ行くことができなかった。そんな中会合をしていたり、外出していたことが報道された芸能人や政治家が多く叩かれたニュースを見た。
一方で、自宅近くのスーパーには、自粛故にたくさんのご飯をつくらなくてはならないお母さんが殺到し軽いパニック状態が起こっていた。
なにかずれている。
不特定多数が訪れるスーパーに歩いて行くよりも、車でレストランに行き貸切で特定数と夕飯を食べた方が安全に決まっている。
そんなこと、みんなきちんと考えれば分かるはずなのである。
ただ、それを理解したのちに、こんな声が聞こえてくる。
そんな外食出来る余裕なんて無い、車なんて無い。
それはそうするために努力を怠ってきたあなたが甘かったのだ。
こういうリスクがあるかもしれない。そう思わずに生きてきたことが甘かった。
そう思って自粛する他ない。有名人を叩いてどうするのだ。炎上してまたその人にお金が入るのだ。これが生きる力の差である。
コロナのような外的な圧倒的要因に限らず、人生において、流れだとか、ターニングポイントだとかそういった瞬間は確かにある。
うまくいっていたように思うことも、何かの拍子に崩れたり、逆にひとつのきっかけで見事にピースがはまり全てが円滑に進むようなこともある。
特に人間関係においてそれは顕著に思う。
昨日まで円滑な人間関係が築けていたにも関わらず、急に何か歪みが生まれたりする。
相手もまた人間なので仕方がない。
そう思いつつ、そうも割り切れない自分もいる。
これまで大切に思ってきた人が大切でなくなったことが経験上無いからだ。
何をされたとしても、一度大事にしよう、大切にしようと思った人のことはずっとそう思っていて、一度好きになった人はずっと好きなのである。
野田さんが昔歌っていたが「人の嫌いになり方」、-これ日本語間違っているとずっと思っているが- というものがわからない。
正直人を好きになることもそうそうないが、この人のために何かしようと一度思うことができたら、時間や労力を費やしたいと思い続けるのである。
故に人から離れたことはないが、人が離れていったことは何度もある。その度に、正直自分の無力さや情けなさを呪う。その人を幸せに出来なかった、その事実にめちゃくちゃ苛まれるのである。
思い返すとずっとその繰り返しである。
いつもどこかしらにささくれのような感情がぶら下りながら、それを消すことはできない、いや、消さないようにむしろ大事に取っているような、
そういう、何かを抱えながら一生懸命生きようとする人に自分は惹かれるのであり、感情を動かされ引き続き振り回され続けるんだと思う。
感情に任せて駄文を綴るのもたまには悪くない、と数年ぶりのまとまらない文章の言い訳をしつつ、本日は眠りにつこうと思う。