1人と1匹のいきぬき

背伸びして棚に上げています。二日酔いが常。

うつろい

 

 

何かおかしい。

肛門に違和感がある。

不思議なもので、これまでにない箇所の、これまでにない感覚にも、人間は明確な確信を持ってそれを感じられるのである。人体の神秘に改めて感心する。

 

偶然、月いちでメンテナンスをしている皮膚科クリニックと同じビルに肛門科があり、すぐに電話をして予約をした。感じている違和感、痒みに近いちくりとした痛みは、どちらかというと「門扉」というよりも、ちょっと出た「玄関先」の感じがしていた。 

頭にちらつく「痔」という悪夢。

しに濁点だったか、ちにそれだったか…

こういうときに、心底くだらないことを考えてしまうのはなぜなのだろう。

これもまた、おそらく一部どこかしら欠陥のある人間の不思議である。

学生時代、大学デビュー仲間うちで臨んだ合コンで酔い潰れうんこを漏らした友人の姿が走馬灯のように過ぎ去っていった。あのときは何もかもが楽しくて笑っていたが、今更だが翌日カレーを食べた自分の図太さを褒めてあげたくなった。

 

おばさんが出てきて、血圧を測った。数値に特に異常は無いようだ。もう少々お待ち下さいね、そう言うと奥に戻っていった。

 

待合室のテレビで、タレントが味噌カツを食べていた。

もううんこにしか見えない。今日はいつにもまして思考回路が最悪である。

 

ほどなく、先ほどと同じおばさんが自分の名前を呼んだ。

診療室に入ると、おじさんの先生と、その奥でおばさんがふたり何か作業をしながらこちらを見ていた。

良かった、若いお姉さんじゃなくて。超失礼ながら胸をなでおろす。

ちゃんと肛門は洗ってきた。おかげでがさがさとした痛みは悪化しているが、プライドの前にそれは致し方なし。必要犠牲、大義であった。

 

おじさん先生が口を開いた。

肛門科ってはじめて?

 

はい

 

そうですか、分かりました

 

何が分かったというのだろう。

 

ええと、肛門が痛いと・・・どんな痛さ?

 

なんか痛痒いというか、

しばらく腹を下していたのでそれが原因かと思うのですが

 

そうですか、まぁ準備しましょうか

じゃあよろしくね

 

はい、というとおじさんと入れ替わりで先程の血圧おばさんが出てきた。不思議なもので、初めて会ったおばさんでも、本日2回目となるともはやちょっとした遠縁の叔母くらいの知り合いの安心感がある。

 

じゃあ診療しますので、これから下を脱いでくださいね

 

ああ、はい

 

勝手も分からず、ただもう仕方ないと腹を括り、おばさんの目の前で下を脱いだ。

 

あ、今じゃないですよ

 

え、はい、すみません、

 

下げたパンツをそそくさと履き直す。

 

え、

何が起こった、今。

 

ベッドに上がってからですね、脱ぐのは

 

バカ早く言え、と言いたい気持ちを堪え、ベッドに上がる。

気を許していたが良く考えれば初めて会った知らんおばさんにただチ○コを見せ、そこまでは百歩譲って良いとして、

それを一瞥くれただけでしまえと言われた、この堪らない恥ずかしさよ。一応まだ男盛りである。ババアよ。

とは言いつつも、圧倒的な知の前に、人間は無力だ。肛門科童貞のぼくは今、このだらしない体をしたおばさんの言葉ひとつで、どれだけの羞恥をも晒せてしまうのだ。

 

あはは、びっくりしちゃいました、思ったより、ね、アレだったから

 

え、

なに。思ったより、なに。アレって、なに。え、

深まる謎。歳を取ると出てくる「アレ」をこれほどまでに恨んだ瞬間は無かった。

というか、え、て言い過ぎである、俺。

 

そしたら、足を抱えるポーズで、そうそう、その状態で診察しますので、そう、

ではここで下を脱いでください

 

今ですか

 

はい、今ですよ、どうぞ

 

なぜ俺はこんな必死に確認しているのだ。仕事じゃあるまいし。

脱ぐと、おじさん先生が出てきた。

 

はい、ではね、見ていきますよ

こんな感じで、指が入りますからね

 

そう言うと、肛門にズズッと違和感を感じた。

おお。初めての感覚に思わず吐息が漏れる。

 

どこらへんが痛いですか

 

入れた指がもぞもぞと動く。

まずい。俺の中の何かが目覚めようとしている。

 

どこ、と言うと・・・

 

ええとね、こっちが後ろ、と言いつつ尾骶骨の方に指をぐりっと回す。

 

おうふ、

 

それで、こっちが前ね、それでこっちが左

 

先生、分かりました、もう大丈夫です、もう大丈夫ですから

 

なぜ2回言った、俺よ。

穴があったら入りたいが、残念、すでに塞がっている。

 

それで言うと、左です、たぶん

 

あ、そう、でもね、傷があるのは後ろだよ

 

え、

こいつ、場所分かってるくせに指突っ込んで俺に場所言わせたの?

どういうプレイなの?そういうプレイなの?だからうまかったの?え、なんなの?

止まらない混乱。混沌。カオス。整理できない思い。恋。これが恋なのか。おっさんずラブなのか。んなわけ。アホか。

便所にこびりついたうんこのように頭から離れない違和感。

最後の一文はいらなかったので本当は消したい。

 

力抜いてね、はい深呼吸

 

抜けるかハゲ。

 

手前に傷があるね、

お腹どれだけ下しても小さい傷しかつかないから、たぶん拭きすぎたんじゃないかな

すぐ治るよ、はい、力抜いて

 

そう言うと何かを穴に突っ込んでプイッと液体を入れた。

また思わず声が漏れる。もう嫌だ。お母さん、情けない息子ですみません。

息子は今、扉を開けて、いや、文字通り開けられて、違うか、新たな境地へ足を踏み入れようとしています。

構わずおじさんは続ける。

 

これね、傷を直してくれるから、帰ってから1日2回、自分でお尻に突っ込んでね

慣れれば大丈夫だから

 

そういうおじさんの横顔は絶対に笑っていた。

悔しいがこのおじさんのテクニックは認めざるを得なかった。

 

じゃあ、来週まだ治ってなかったらまた来てください

 

絶対にいやだ。絶対に治す。

そう心に決めてぼくはクリニックを後にした。

 

 

こんな話はどうでも良いのだ。

 

 

 

 

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アイスコーヒーが喉から体を伝わって落ちてゆく。

喉が痛い。度々来るこの周期は何なんだろう。

 

風邪を引いたからといって、大差ない日々は続いていく。

毎日鳴る波の音のアラームも変わらないし、

ベッドから出てトイレに行くついでにケトルのスイッチを入れるリズムも変わらない。

昨日出しておいたアミノ酸の粉末を水で流し込み、冷たいシャワーを浴びる。

バスタオルも、着る白いTシャツも、同じものを5枚ずつ持っている。それらを洗う洗剤も柔軟剤も、洗面台の下に2つずつストックしてある。それらはもう数年変わっていない。

 

タオルで頭を拭きながら戻ると、キッチンには既に朝イチの大仕事を終えたケトルが誇らしげに熱気を纏っている。

バスケットに無造作に重ねられたポタージュと味噌汁の粉末から適当なものを選び、何かの頂き物のカップに入れ溶いてゆく。

昨日買ってきた、ハチミツを練り込んだパンにまたたっぷりとハチミツをかけ、朝ごはんの完成だ。

 

アイスコーヒーは作り置きしている。

たっぷりのお湯を沸かし、濃い目に落としたホットコーヒーを、氷で冷却する。

サウナが好きだから、このとき水風呂の要領で一気に冷やすと、アイスコーヒーがより締まる気がする。

バカはいくつになっても治らない、とは言うが、こんなちょっぴりの、だがたくさんのこだわりに囲まれて、ぼくは変わらない毎日を過ごしている。

 

変化が嫌いになった。

コーヒーはできるだけコロンビアが良いし、TシャツはMackintoshのが良い。

左利きだが時計は左腕に着けたいし、靴下は右から履きたい。

だから周期的に喉痛が来ることは悪くない。

そろそろだと思えるからだ。

予想外なことが起こると、分かりやすく狼狽してしまう。

波風立てず、日々を暮らしていきたい。

 

カップに口を付け、じゃがいものポタージュの熱さを憂えながら、カウンターテーブルで充電器に繋いだPCを開く。

SNSを仕事のコミュニケーションツールにすべきじゃない。こう思うのも毎朝のルーティンだ。LINE、Messenger、Slack、ChatWork、それぞれのアイコンの右上に、気が滅入る数の数値を飲み込んだ赤丸がついている。

変化しかない目まぐるしい日々がまた始まる。

ふぅ、とPCから目を離し息をつく。朝のはじまりのここまでの静かな日常は、本当はのんびり暮らしたい自分に対しての免罪符である。ハチミツの甘さが優しく鼻を抜ける。ポタージュはまだ熱くて飲めない。冷めるのを待てないPCが、ピコン、と大量のメールが届いたことを知らせた。

 

 

数日、暇を頂いてひとり、旅行にでかけた。

顧みない日々の中で少し身体のバランスが崩れてしまったことで、籠って自分を見つめ直したい、そう思って向かった先は、自然に囲まれた静かな旅館だった。周りには何もなく、優しくもピンと張り詰めた緊張感のある、半袖だといくらかひんやりと感じる空気が流れている。ただただ下を流れる川の音だけが、世界にまだ音があることを教えてくれていた。

 

部屋は質素ながら、おそらく最近替えた新しい畳の良い香りに包まれた、一目見て良質と分かる素晴らしい空間だった。

川を見下ろし夕焼けを望むことのできる西向きの角部屋で、窓を開けると檜の風呂があり、少し色のついた温泉が湯気を上げて迎えてくれた。

沈みゆく夕日を拝みながら、湯と檜の香りに包まれ、ゆっくりと湯に浸かった。

風呂から上がり、旅館の推しと予約サイトに書いてあった夕食の御膳を頂き、窓際の椅子に腰掛け、自宅から持ってきた数冊の小説のうちのひとつを読んだ。

いつぶりだろうか。これほどまでに充実した気持ちになったのは。

 

明日は、少し近くを歩こう。

近くに美味しい蕎麦屋があるらしい。

折角だから色々と回ってみよう。

 

あれ、とふと思う。

静かな日々を過ごしたい自分にとって、本来この感覚は悪だ。注意深く暮らしていかなければならない自分に対して、ここから今すぐにでも飛び立っていきたい自分は好きじゃない。人に迷惑をかけないように、簡単に何かに飛び付かず生きていきたい。そう思っていても、予定通り今この部屋で籠もって過ごしていたい自分のことも、外に出てさまざまなものに触れたいと感じる自分のことも、何か同じものを求めていて、今は自分らしい気がする。

 

変化を求めないのは、変化したいから、なのだ。

変わりたい、そう強く願う気持ちが、変えまい、という強い日常の自制心に現れているのだ、という仮定がとてもしっくりきた。

 

ただ、変わりたいと願う気持ちの向かう先を宙ぶらりんにさせていてはいけない。主体性のない人間は、目標がない人生にも無邪気に全力になれてしまう哀しい性がある。最近のぼくは、ギアの外れた自転車のように、カラカラと虚しく空回りし続けていたのかもしれない。

 

 

 

 

数日経ち、出て行った時と全く変わらない現実に戻ってきた。

毎日、朝目が覚めて時計を見やると、止まっているのかと錯覚するほど針は2本とも仲良く5と6の間に収まっているし、洗面台の横の細長い棚を開ければ白いタオルとTシャツが2段ずつ並んでいる。

相変わらずケトルは誇らしげだし、PCはせっかちで、ポタージュはまだ熱い。

 

フライパンを出し、手前のコンロに起き火をかける。冷蔵庫からベーコンと卵を取り出し、熱したフライパンに少し油を引きベーコンを並べる。パチパチと軽快な気持ちの良い音を立てて、ピンク色から肌色、褐色へと変わっていく。白い皿にカリカリになったそれを取り出し、油を残したまま今度は卵を割ってそこに落とす。ジュッと一瞬戸惑った様子を見せた後、見る見るうちに透明が白へと変わっていく。カップに用意した水を流し込みフライパンに蓋をすると、世界は一瞬で霧に包まれた。軽快な音は消え、ゴーッという籠もった音だけが響く。少しして蓋を開けると、程良い半熟の目玉焼きが出来上がっていた。ベーコンの上に乗せ、白い丸皿をポタージュの隣にコトリと置いた。パンを頬張る。ハチミツの香りが鼻を抜ける。半熟の目玉焼きの黄身を纏ったベーコンをつつく。ポタージュは丁度良い温度だ。今日は珍しく、キノコのポタージュだ。

 

明日はスクランブルエッグにしようか。

明後日は卵焼きか。そうなるとパンよりご飯の方が良いか。

食器を片した後、冷たいアイスコーヒーを流し込む。喉はまだ少し痛い。もうあと2日もすれば良くなり忘れてしまうのだろう。

カーテンを引き、窓を開けると、秋になり切れない夏空が目の前に大きく広がり、夏の匂いを残した秋風が吹き抜けた。