1人と1匹のいきぬき

背伸びして棚に上げています。二日酔いが常。

珈琲も飲みたい

 

 

 

 

 

朝6時。

 

 

 

いつも通り浅煎りの珈琲を淹れる。

 

 

 

歳をとって、早起きになった。

3時に寝ても、4時に寝ても、6時に一度目が覚める。

すっかりおっさんである。じぶんの中のおっさんの存在にビビる。

 

いつか人格が入れ替わりおっさんに支配されてしまうのではあるまいか。

君の名は。の主人公が、おっさんとおっさんになりかけのプチおっさんだったらと思うとゾッとする。

 

 

 

とりあえず、なんだかもったいないので、そこで起きる。

 

 

「もったいない」という価値観も人それぞれで

たぶん、同じ「もったいない」でも、再び寝る選択をするひとの方が多い気がする。

ひとは、それぞれである。本当に。

 

 

 

 

 

 

初めに言っておくと、ぼくはコーヒーが好きだ。

 

 

しかし、朝から深煎りのコーヒーを飲むと1日中お腹が痛くなる。

 

コーヒーのことをどれだけ好いても、一向にコーヒーからの歩み寄りはない。

人生に似ている。深いっぽいことを言ってみる。コーヒーだけに。

 

 

 

 

とりあえず、そんなわけで朝は浅煎りと決まっている。

 

あさ、ということで覚えておいてほしい。覚えなくても良い。本当に。

 

 

 

 

 

深煎りということなのだが、コーヒーというのは非常に深い。

 

これも、読み飛ばして良い。本当に。

 

 

 

 

 

今日はちょっとした小ボケを放り込みたい気分なのだ。

前言での失敗を取り返そうと、それがたびたびになってしまい、

無限ループに陥っているのである。こんな序盤から泥試合である。

コーヒーをスプーンでかき混ぜ、ミルクを垂らしたあの感じである。

 

 

 

 

 

そういえば、昔ボツになった曲の歌詞で

 

ぼくの頭はぐるぐる回る、そう、ちょうどこの、コーヒーカップのように

 

という歌詞を書いた。

ボツになるはずである。非常にダサい。書いていて恥ずかしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コーヒーというのは、南回帰線と北回帰線の間の一部の地域で栽培されている。

コーヒーベルトと呼ばれているエリアだ。

高度が500mから2500m程度の高地か山でなければ育たないという、なんとも本来希少なものなのだ。

南米、中米、アフリカ、アジア、オセアニアなどで一年中栽培され、地域によって収穫時期は異なる。

コロンビアやケニアなど雨季が2回ある国は年二度収穫される場所もある。

 

 

 

 

 

ここまで説明しておいてなんだが、あくまで私の記憶の情報である。

ここに記載するにあたって全く正誤は確認していない。

たぶん基本情報なので合っているが、基本的に「ネットの情報は信じるな」である。

 

 

 

 

 

 

コーヒーの香りは本当に地域や栽培方法で様々だ。

浅煎りだとフルーツや花、深煎りだとバニラやナッツ、チョコレートを感じさせるものが多い。

口当たりは浅煎りだとざらつき、深いと滑らかに、味は浅煎りだと酸味が、深いと苦味が強くなる。

 

豆によっては深い焙煎だと味が急激に抜けてしまうこともあったりする。

なかなか気難しい子たちなのである。そこがおもしろいのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

コーヒーの味というのは豆それ自体だけでなく、バリスタの腕に大きく左右される。

 

煎り具合から入り、落とし方、お湯の温度、注ぐ湯量の細さ、蒸らす時間、落とすスピード、そもそもの落とす環境温度、湿度など、様々な要素が複雑に絡み合い、一杯のコーヒーが完成する。

 

言ってしまえば、不味い豆でも、巧いバリスタが淹れると、美味くなることも充分にあり得る。

 

 

 

 

 

 

 

コーヒーを淹れる行為は、エクストリームスポーツに似ていると、ぼくは個人的に思っている。

スカイダイビングやスキンダイビング、またふだんはスケボをやっているのだが

こういったスポーツが好きなのは、一体になれることのないはずの「自然」と、対話する瞬間があるからだ。

 

 

 

 

 

コーヒーを淹れるときに得られる感覚は、これに近い気がする。

 

 

豆を蒸らしているときの空気。

お湯を注いでいるときのあの没入感。

 

 

じぶんの思った通りの温度、細さ、感覚で注がれた湯が、思った通りに豆を経由してカップに落ちていく感覚。

 

 

バリスタを何年やってもコーヒーはお腹が痛くなるし

細かい味なんてのは語り出すと上には上がおりキリがないのだが

 

それでも、うまく落ちたときのコーヒーは、美味い。

 

 

 

本当にすごいバリスタさんが淹れたコーヒーというのは、誰が飲んでも本当に美味い。

雑味がない、というのはこれか、ということが、多分誰でもわかる。

 

 

 

 

 

ハンドドリップという行為は会話だ、と言っていた方がいた。

ぼくにはその時わからなかったが、淹れ続けていくうちに少し理解ってきた気がする。

 

 

きっと何事もそうなんだろう。

 

 

やり続けて初めてわかることが、きっとある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コーヒーの味に関しても、おもしろいと思うことがある。

 

 

 

そもそも、コーヒーがうまいと良く言うが、果たして本当にそうなのか。

 

本気で言っているのか。

カルピスの方が美味いじゃないか。

ポカリの方が爽やかで甘くて美味しくないか。

そもそも牛乳がいちばん美味い気がする。

 

と、ぼくは思う。

 

 

だが、確かにコーヒーは「うまい」のだ。

美味い、というより、旨い、とでも言うのだろうか。

 

 

 

皇帝ナポレオンは、コーヒーのことを「程良い苦痛」と表現した。

これに関して、おもしろい表現だなあと感心した。

 

言い得て妙で、まさにそうだと感じる。

ぼくにとってそれは、「丁度良い刺激物」なのである。

 

過程に痛みが伴うことはどんなことでも当然あることであり

実際それがある種日々のエンジンになっていることも往々にしてある。

 

朝から手っ取り早くそれを摂取することで、ひとは日々を生き抜いているのである。

朝から苦しみたいなんて、とんだM集団の集まりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局何が言いたかったのか、コーヒーを飲んで一旦落ち着いて考えてみた。

 

 

 

 

コーヒーのうまさは、労働あればこそ。

 

そんなことが言いたかったわけじゃない。

 

 

 

 

仕事の合間にバババッとこの文章を打ち込んでいる、そんないきぬきというか

もはや八つ当たりの時間に、一杯のコーヒーが飲みたかっただけなのである。

 

 

 

またがんばろうと思えるとか、俺頑張ってるよなあ、とか、

そういう、日々の特に励ましの言葉もいらないなんでもないときに

本当に何も言わず、ただ喫煙所で一緒にタバコをふかしてくれるような、俺はわかってるよ、みたいな

 

 

コーヒーっていうのはそういう存在である。

 

 

大丈夫!とかそういうのは、カルピスで良い。

頑張って!きっとやれる!はポカリに任せておけば良い。

そういうことじゃなく、もっと深い位置での結束感、大丈夫じゃねえけどさ、という、

そういうステージでの共感が、コーヒーにはある気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやはや、今後ともお世話になります。コーヒーさま。

 

 

 

「良さ」が宿るとき。

 

 

待ちに待った日がきた。

 

 

 

 

 

 

修理に出した財布が戻ってきたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尊敬する大切な人にいただいた、大事な財布。

 

一見ふつうの黒い長財布なのだが、

そこには他と全く違う思い入れがあるがゆえに

新しく財布を買うくらいの修理費用がかかったとしても、修理に出すのだ。

 

 

 

修理に出すお店も、いろいろ調べて決めた。

どれだけの対応をしてくれるのか。

そもそもそのブランドを知っているか。

なにせ、その人以外にそのブランドの財布を使っている人を見たことがない。

 

 

ファスナーのサイズ、シルバーの色合い、ファスナーを開ける感じ、皮の吸い付く感じ。

 

そのひとがぼくに語ってくれたこだわりの数々をそのままに、

どれだけこの財布が大切なもので、状態を保って使っていきたいか、伝えた。

 

 

大変申し訳ないんですけど、という前置きの上でも

ものすごく面倒な客だと迷惑そうな顔をした方もいた。

それでも、丁寧に最後まで聞いて「好きなんだねえ、ほんとに」と笑った人の良さそうなおじさんに決めた。

 

 

実際に工場に出す発注書の内容に、事細かに

ぼくが話した内容を書き込んでくれた。

 

 

 

 

 

 

その、君のこだわりも、伝えておくね、それが良いんでしょ

 

そうしてください笑

 

 

 

 

 

 

大切な気持ちを理解ってくれたことに感謝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これからも、この財布を使うんだと思う。

いつしかその必要がなくなる、そのときまで。

 

 

 

 

そういう、少しの大切なものたちに囲まれていたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世の中にはものが溢れている。

良いっぽいものも、平気で転がっている。

新しい、面白いものも、かっこいいものも、しゅっちゅう見かける。

見るたびに変わっているから、忙しい。

 

 

 

 

 

「良いもの」とは何なのか。

その定義が明確に曖昧なまま、世間の言う良いっぽいものに

手っ取り早い安心を求めている人は少なくないと思う。

 

 

 

 

「良いもの」とは、本来人それぞれであると思う。

そこに共感を求める必要もない。

 

 

 

 

もし仮に多くの人が使えば「良いもの」なんだとしたら

ユニクロとかZARAがいちばんファッショナブルな服だし

カップラーメンがいちばんうまい飯なのだ。

 

 

 

 

でもそうじゃない。

ここは、たぶん、多くのひとが頷く。不思議だ。

 

 

 

 

簡単にものが手に入る今。

 

 

 

しあわせな時代に生まれたなあと思う一方で

そういうものに対する審美眼については、そういうわけで

多くのひとが持ち合わせないまま過ごしている気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくは、好きなブランドの服以外は、ほぼいただいた服で生きている。

 

 

 

仕事上、極力じぶんはコレだ、こだわりみたいなものは持ちたくないなあと思っているから

じぶんが似合う服を着るのではなく、ひとが、ぼくに似合うと思ってくれる服を着たいと思う。

 

 

 

それに、ぼくにとって最も価値があることやものは、

良いものに溢れている中で「そこに思いがある」ことが大切なのだ。

 

 

 

 

 

素材が良いものや、高価なものは、着るとカチッとしたくなる。

背筋が伸びる気分だ。ゆえにスーツはそういうものを選んでいたりもする。

 

でも、そこに身近に尊敬するひとや好きなひとの、ぼくに対する思いが乗っかってくると

そういう、身が引き締まる思いとともに、包まれている、というか、あたたかみを感じるのだ。

 

 

 

 

 

 

今の時代、どれだけの思いをそこに込められるかが、ものの価値だと、ぼくは思う。

 

 

値段じゃない。そこに思いがあるかどうか。

ただかっこいいものは、たくさんあるのだ。

 

 

 

もちろん、そういうものに思いがこもっていない、と言っているわけではない。

ハイブランドにはそれぞれ、そこに君臨し続ける理由がある。

それはきっと「思い」だ。

それがブランドというものだとも思う。

 

 

 

ただ、ぼくが大切にしたいのは、その服そのものに対する思いではなく

 

大切にしたいひとが、同じく思いをぼくに対して持ってくれていて

思い入れのある何かを、引き継ごうとしてくれる、その思いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お世話になっている先輩に、また服をいただいた。

 

 

 

 

 

 

 

ちょっとこっち来な

 

 

はい

 

 

わ、なんすかこれ

 

 

これ、全部やるよ

 

 

まじっすか

 

 

これを似合うやつが、たくさん着てくれた方が俺も良いから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先輩宅にて、奥さんも含めた晩酌後、ふたりで夜な夜な話した。

ひとしきり酒を飲みきり、ウィスキーを片手に先輩と、酔っ払った気持ち良さもあり

身に付けるものについてのこだわりをいろいろ話した。

 

 

 

 

 

この服が、どんな経緯で今ここにあるのか。

先輩のその服に対する思い、ストーリー。

 

なぜその先にぼくを選んでくれたのか。

先輩とぼくとのストーリー。

 

 

 

 

 

こんな旨い肴はない。

 

 

 

 

 

 

それは、オリジナルのストーリーだ。

どのブランドがどれだけのこだわりを持って、どれだけの財を投じて何かを作ったとしても

手に入らない、先輩や、ぼくにしか作り得ない、わからない、物語がそこにはある。

 

 

 

 

 

 

 

それこそが価値だと思うし、

ぼくにとっての「良いもの」は、物語を語れるもの、

 

中でも、「そういう」物語を語れるものなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前が着てくれるなら、やるよ」

 

 

そう言ってもらえることは、この上なく嬉しい。

 

 

 

これからもそうやってストーリーを身に纏って生きていきたいし

ぼく自身もそうやってひとに思いを引き継いでいきたいと切に思う。

 

 

 

 

 

そんなことを、ひとりで晩酌しつつ、戻ってきた財布を磨きながら考えている。

なかなかに幸せである。

 

これも、頂いた日本酒だ。わざわざ帰省先で買って帰ってきてくれたのである。

 

 

ここにもストーリーがある。

 

 

 

 

そこに、「良さ」が宿るのだ。

 

 

 

奇跡くらい、ちょっと起こってくれ。

 

やらなくても良いことがたくさんある。

 

 

 

 

 

でも、だいたい、そういうことって好きだ。

 

 

靴を磨く時間が好きだ。これができていないと、忙しいということで

ぼくは機嫌が悪くなる。というわけで、機嫌が悪くなると、ぼくは革靴を履く。磨くために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忙しいときほど、やらなくても良いことをやりたくなるのはなんでだろう。

 

 

 

 

 

 

無駄に自転車を夜な夜な漕いでみたりする。

青春を思い出したくなるのだろうか。分からない。

 

 

電池切れの腕時計に気付くのも決まってそんなときだ。

 

 

いつもは買わない、粒の大きい、高い方の納豆を買うのもそんなときだ。

 

 

やたらと家中のタオルを洗ってみたり、ベッドのシーツを取り替えてみたり

模様替えのアイデアがなぜか浮かんでくるのだ。

 

 

おもしろいのは、それをひととおりじぶんの好きにやらせてみると

そのあとすごく仕事が捗るのだ。

 

 

さっきまで全く思いつかなかったことが

洗濯物を一旦丁寧に意識して畳んでみると、そのあと割とすぐに思いつくのだ。

 

 

現実逃避ではなく、ぼくはこれは正直なぼく自身の現状に対する反応として受け取っている。

 

 

 

 

あ、全然思いつかんな~

 

あ、なんか洗濯物たたみたい

 

そうだよね、うん

 

俺って今たたみたいよね

 

たたまないと思いつかないんだよね

 

わかった、たたむ

 

 

 

こんな具合である。

 

 

 

 

 

さらにおもしろいのは、この具合で

寝たい、とはならない点である。

 

 

洗濯物を回して、部屋を掃除して、午前2時になった。

 

 

そこから、仕事が捗るのである。不思議だ。

 

 

 

 

 

話がずれた。

 

 

いや、ずれてもない。

 

 

もともと、本題になんていっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道具を大切に使えと、けっこう躾けられた。

野球の練習をしたら、道具を磨く。これは一連の作業だった。

 

 

時々疲れのあまり面倒になってやらなかったこともあった。

そうすると、ものすごい罪悪感に苛まれた。

 

 

 

 

 

狭い玄関で手入れ用具をいっぱいに広げ、グラブとスパイクを念入りに磨いた。

空調はなく、夏は大汗をかきながら、冬は鼻を垂らしながら。なぜかはわからない。

風呂に入った後にそれをやるものだから、結局土とオイルの匂いを纏って寝ていた。

 

 

 

結構その時間、その空間が好きだった。

 

 

 

ただ、残念なことに、道具を磨くことと野球が上手いことは比例しなかった。

 

いつしか、それをやっても野球が上手くなるとか、報われる、とかそんなことはないと悟った。

 

それでも、その作業は欠かさずやった。

 

意地のような、すがるような、そんな思いだったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

野球人生が終わり、そのルーティンは必要なくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうして、ひとしきり回り道をして、またぼくはそのルーティンを再開した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時は経ち、スパイクとグラブは、革靴とクラッチバッグになっていた。

考えることは、あの試合ではなくあの商談になり、好きなあの子ではなく妻になっていた。

保険とか税金とかそんなことも考えなくちゃいけなくなっていた。

 

 

 

 

抱えるものは重く多くなり、考えられる時間は減った。

 

 

 

 

 

 

 

 

玄関に座り、革靴とクラッチバッグを磨く。

 

 

 

姉から磨き道具一式を誕生日にもらった。

本当にデキる人間だと思う。

姉は今ぼくが、日々革靴を磨いていることなんて知らないはずなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブラシで丹念にホコリを払う。

オイルをタオルに染み込ませ、丁寧に丁寧に磨いていく。

確かに染み込む感覚があって、革靴のすべてにそれが感じられるまでしっかり付き合う。

最後に着色を行い、余分な油分を乾いたタイルで拭き取る。

 

 

 

 

 

 

一足一足。いろんなことを考えながら。

うまくいった喜び。ぶつけたい苛立ち。

そして、日々戦場に一緒に行ってくれる彼らに感謝しながら。

 

 

 

 

 

 

 

ホームランを打つのは、ファインプレーをするのはいつもじぶんだ。

そのためにすることはたくさんあって、それを必死でしたとしても、うまくいくことは、いつも、稀だ。

 

 

辛い毎日だ。

 

楽しいことは、楽じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道具を磨くのは、安心したいからだ。

 

これだけ頑張っているんだ、俺は

奇跡くらいちょっと起こってくれ。

 

そう、自分だけでは背負いきれなくなったものを、ちょっと何かに託してみる。

 

 

 

それで何が変わるわけじゃないのだが、それでまたやれるじぶんになれる。

 

 

 

 

 

 

 

何かにすがりたくなると思う、じぶんのことはきらいじゃない。

じぶんひとりでは生きていけないと思えるじぶんのことが、ぼくは好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

なるべく多くのことができるようになりたい。

じぶんだけでできるだけ完結できるようになりたい。

前まではそんなことを思っていたが、そうは思わなくなった。

もちろんそれは一度広げたからわかったことなんだと思うので、結果として有意義な期間だったのだが。

 

 

 

 

 

 

 

ひとりよりふたりの方が良い。

寄り添っていてもらいたいし、寄り添っていたい。

 

 

 

 

 

 

この靴磨きというルーティンは、ぼくの逃げ場なのである。

 

 

 

 

 

 

 

弱い人間である。

 

 

 

 

 

 

でも、そのおかげで、また強くなれるのだ。前よりも。

 

 

 

 

 

オール ウィー ニード イズ…?

 

少し間が空いてしまいました。

 

 

 

 

何かに没頭していないとやり過ごせない心境で、

何か望んで追われるように日々を過ごしていましたが

 

 

なかなか、そう、かんたんに、片付く気持ちではないもので

チリチリとした、というか、ささくれみたいな感情が

ずっとひっかかっていたのですが。

 

 

 

そんな中でも、ときどき、やり過ごせる日があるんです。

 

 

 

 

決まってそのとき、誰かがいるんですよね。

ご飯に連れ出してくれたり、連絡をくれたり、電話をくれたり。

道端でばったり、なぜここでというタイミングで会ったり。

 


なんにせよ、

共有できるということは、とてもしあわせなことだなあと、思います。

 

 

そこに何かあるわけじゃなくとも、根本的な解決でなくとも、その瞬間、その時間に身を委ねさせてくれる、そんなときも、たまに必要なんだな、と思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

語尾って、印象を大きく左右すると思います。

いつもは丁寧語でものを書かないぼくですが、今回は自然にそうなりました。

 

こういう心の動きもあるのかと、ひとのそういう瞬間に出会った時には、優しい気持ちで接しようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ギフト、という映画を観ました。

 

 

 

 

 

妻と観たかったのですが、今、彼女は北海道にいるので

誰と観るわけでもなく、ひとりで観ました。

 

 

レイトショー、ぼくを入れて5人程度でしょうか。

小さい映画館でしっぽりと。

 

ペアは一組で、あとは個人。

 

こういうのは、心地良いものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロの人気アメフト選手の、幸せな結婚、選手生活引退、自由な人生を謳歌

 

奥さんの妊娠が発覚、幸せ絶頂なタイミングでのALS診断。

 

筋肉が動かなくなり、最終的に呼吸もできなくなる。

 

診断後の寿命は2~4年程度という難病。

 

 

 

 

 

彼は、生まれてくる息子に、毎日メッセージビデオを撮り始めます。

 

息子が話せるようになるとき、自分はきっと話せない。生きているかも分からない。

今、残せるものを残したい。

 

そんな夫を、献身的に支え続ける妻の、やり切れない思い、葛藤。

 

そして息子の誕生と成長。

 

 

 

日に日に、やれたことができなくなっていく。

呼吸が自力でできなくなる。それでも生きたい。生きていたい。

やれることがある。一緒にいたいひとがいる。

 

 

 

 

 

 

 

そんな話でした。

そこにあるのは、絶望と、そして希望、愛でした。

 

 

 

 

 

 

あまりに現実的な話。

 

診断を受けても、体に違和感があるだけで、まだ日常生活に少しも支障はありません。

 

もしかしたら、治るのでは。

もしかしたら、誤診なのでは。

うちだけは特別かもしれない。

そう思う。信じたい。期待したい。

 

 

走れなくなった。泳げなくなった。

夫のその姿を観たときに、妻は病気を心から実感してしまいます。

 

本当にそうなんだ。

治らないんだ、と。

 

アメフト選手とは思えないほど、体はどんどんやせ細ってゆきます。

治療法のない難病。回復の兆しなんてないのです。

 

 

 

それでも、ひとは生きるのです。死ぬまで。

 

 

このドキュメンタリーを観ながら、思うことがありました。

生きる理由があるということは、素晴らしいことだと思います。

それがひとつあるだけで、人生の意義は大きく変わるからです。

 

 

 

 

なんとなく生きている、という「わけ」でなく

死にたくないから生きる、という「訳」でもなく

生きたいと強く思える、そういう「理由」があると、ひとは強いと思います。

 

 

 

 

それを、じぶんの中に見出すことは、ときどき難しかったりします。

じぶん以外に見出すからこそ、救われることもあるんじゃないでしょうか。

 

 

 

生まれてくる息子に、伝えたいことがある。

一緒に生きていたい妻がいる。

救いたい、同じ病気に侵されて苦しんでいるひとたちがいる。

 

 

 

彼は、その思いだけで、病と闘い続けています。

もう、死ぬ。絶対に死ぬんです。その圧倒的な現実を前にして、尚、抗えるその原動力となっているのは確実に愛なんでしょう。何か測れるものではない。

 

 

その事実に、ただ圧倒されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰り道、電車に乗らずに夜道を歩いて帰りました。

観たかったなあと、この思いを共有したかったなあと

フラフラ考えながら歩くのです。

 

 

 

こういう仕事をしていると、たくさんの根拠というものを探してしまいます。

なぜこう思ったのか、どうやってこれを伝えよう・・・

 

 

 

もしかしたら、本当に大切なひととは、そんなものはいらないんじゃないか、とさえ思いました。

多分、そういう人との時間では、ことばなんてものは飾り、調味料程度でしかないのです。

 

 

考えてみれば、大切なひとの「大丈夫だよ」という一言があっただけで

今までいろんなことを、ぼくは確かにやり切れてきました。

 

 

 

そこに理論とか根拠とか、理由とかそういうものなんていらない。

そこにあるのは誰かが誰かを想う、気持ちだけ。

 

 

 

 

 

心から想う誰かと生きていくということは、

それは、ほんとうに尊いものなんですね。

 

 

 

そういうものの、そのことばが持つ意味を、この映画から

いくつか見つけられた気がします。

 

 

 

 

 

 

 


『ギフト 僕がきみに残せるもの』予告編

 

情熱を傾けるものは、好きなものの方が良い

 

 

飲みの場で人から聞いたことが心に残っていることが多い。

というか、ほとんどがそれだ。

 

 

 

 

どんだけ飲み歩いているのか、という話がまずあるが、ともかくだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「情熱を傾けるものは、好きなものの方が良いよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

とある先輩に、そう言われたとき、

何か心にすっと入ってこない感覚があった。

 

 

それが何か、そのあと考えてみたのだが答えはすぐにでた。

 

 

 

 

 

そもそも、好きなものにしか情熱を傾けないのだ。ふつうは。

 

 

 

 

 

 

 

兄さん、思ったんですけど

この前の話、ぼく、ふつうね、好きなものにしか没頭して情熱を注がないんと思うんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

そうだよな。ふつうは。

 

 

違うひとっているんですか?

 

 

俺は、どちらかというとそうかなー。

 

 

どういうことですか、それって

 

 

 

たぶん、お前もそうだよ。

 

 

まじすか

 

 

まじだよ

 

 

うそだあ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

曰く、

 

 

 

 

 

がんばれるというのは、才能らしい。

損でもあるとそのひとは笑っていたが、そうらしい。

 

 

好きでもないことにも頑張れてしまうかららしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きなものとは、そもそもなんなんだろう。

2つあると思っていて、根源的な好き、これは先天的なものである。物心ついたときには好きだったもの。

ぼくでいうと、カレー、LEGO、音楽などである。これらはなぜ好きかどうか、分からない。考えることすら、野暮である。

 

 

 

もうひとつは、後天的なものである。何かがきっかけで好きになったことや、ものである。

デザインが、まさにこれに当たる。

 

 

 

 

 

どちらが良い悪いの話ではないが、よくよく考えてみると、ぼくが今好きだと思っているものは、後者が多いように感じる。

 

 

 

 

 

 

 

何がきっかけで好きになるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やってたら好きになるんだよ

 

そういうもんだよ

 

 

そういうものって、逃げられない、やらないといけないタイミングがきっとあったはずで

そのときにやめたり逃げずにやったことなんだよ

 

 

じゃないと元々好きじゃなかったとこなんて

好きになるわけがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なにか急に訥々とした声色でそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何かあったんすか笑

 

 

なんもねーよ

・・・うそ、今超忙しい

 

 

なるほど、言い聞かせてると。

 

 

じゃないとさあ。ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きなことやったほうが良い。

 

 

 

これは本当に正論だ。

情熱を傾けるなら、好きなことであることに越したことはない。

でも、それができる人間は一握りだと思う。

夢破れて、とか、目の前の生きるという問題に必死で、とか、いろんなことがあって

一点突破で突き進める人間は限りなく少ないと思う。

 

 

 

 

 

だからひとは、目の前のことを好きになる。

一旦好きになってみる。そこからはじめる。

 

 

 

 

 

 

根源的に好きなことはある。

それを仕事にすることは最近の流行りでもある。

 

 

 

 

 

 

「お金の心配とか何も無かったら、何したい?」

「それが本当に好きなことだよ」

 

 

 

 

 

 

腐るほど聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

分かっている。

わざわざ再認識させられなくとも、そんなことはとっくに分かっている。

 

 

できれば「折り合い」なんて付けずに生きていたい。

 

 

でもそうしなきゃ生きていけないタイミングを経て、

ほんとうはそんなこと思っていないのに、大人になった、と負け惜しみを言って笑うのだ。

 

 

 

 

 

好きになる。ということは

ぼくは個人的には格好良いことだと思う。

 

 

 

それすらも、言い訳なのかもしれないが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何かを守るために、じぶんを一度滅却して、何かを好きになる。

何度も何度も、じぶんが出てくるのを抑える。

じぶんが出てきてしまうと、好きが強いほど、たぶん死にたくなる。

 

 

 

いくつかのそういう機会を越えたときに

目の前のそれを好きだと思えているじぶんがいる。

 

 

 

そうして後天的に得た好きは、けっこう強い。

 

なぜなら、好きなだけじゃなく、いつの間にか技にまで昇華されているからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好きでいうと、

 

 

 

好きの程度にはグレーだってあったほうが良いとも思う。

 

 

好き!とか嫌い!とか、そういう、真夏のピーカン晴れイェイみたいな

0か100だけじゃなくて良いのだ。

 

 

 

 

 

好きなんだよね、

そういう「しみじみ」があったって良い。

 

 

 

 

音楽が好き、にだって一口に言ったときにも色々ある。

 

 

 

 

音が好き。詞が好き。

歌うのが好き。弾くのが好き。

聞くのが好き。つくるのが好き。

人に聞かせるのが好き。良い音で聞くのが好き。

 

 

 

 

バンドをやっていた親父は、制作会社の音楽部門に行った。

 

大変ながら、楽しそうに働いている。

 

家で良く、ギターを弾いていた。

 

 

 

 

きっとどちらも、好きなんだろう。

でも最初はきっと、時間があればギターの方を弾いていたかったんじゃあなかろうか。

 

 

それをぐっと堪えて、たぶん親父は働いたんだろうと察する。

 

 

 

 

そうするなかで、きっと楽しみをひとつずつ見つけていって

いつの間にか「好き」になったんだと思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

それもまた、音楽で食ってる、と胸を張って言える立派なことなんじゃなかろうか。

 

 

 

 

折り合い、それを大人とわざわざ格好つけてしまうと

それもなんだかなあという感じなのだが、

 

 

 

白黒ハッキリつけて、好きなことだけやろうというのも、

それこそなんだかダサいというか、そう思うのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それに、

 

好きなものは、大概の場合ひとつじゃない。

 

 

例えばそれがふたつあって、天秤にそれをかけた時に

どちらか一方が理由で、どちらか一方を捨てて、突き進むとする。

 

 

で、選ばなかった方の、諦めた好きなことが、

ずっと自分の中で、何か、つっかえている気持ち悪さがあるときがある。

 

 

 

バンドマンが彼女を選んでサラリーマンになる、あれである。

 

彼女は嬉しくもありつつ、「それでいいの?」と聞く。

 

それでいいわけないのだ。

 

けれど、それでいいのだ。

それ「が」なのか「で」なのかわからないが、よい、と決めたことなのだから。

 

 

とやかく確認するのは野暮である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話がなんだかあっちこっちにいってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 とにかくも、

 

 

情熱を傾けるものは、好きなものの方が良い。

 

 

 

 

それはもちろんなのだが、

 

 

 

 

 

情熱を傾ければ、好きなものになる。

 

 

 

 

ぼくにはその方がしっくりくる気がする。

 

 

 

 

 

 

どうなんだろう。

 

 

 

みなさん、どうですかね。

 

 

 

 

言い訳なんですかね。はは。

 

 

結局、わからないのよ

 

 

 

 

 

 

先日、こんな話をした。

 

 

 

 

 

 

「今そのひとにかけたことばが、そのひとにかけた最後の言葉になったらどうする?」

 

 

 

 

こんなことばを、何かの本のなかで、

第二次大戦中、ナチスに本国を侵略され、

強制収容所で家族を全て亡くし、ひとりだけ生き残った女性が言っていた。

 

 

幼かった彼女は、ナチスに強制的に汽車に乗らされ、収容所へ向かわされていた。

親とは逸れ(もう殺されていたんだろう)、小さい弟と一緒だった彼女は

何か取るに足らないことで、弟を叱ったらしい。

 

何が起こっているのかも、これから何が起こるかもわからない状況下。

不安に押しつぶされそうな中で、何も理解できていない弟の無邪気な行動に

思わず口をついてきついことばが出てきてしまった、という。

 

 

 

 

 

 

そして、そのことばが、弟にかけた最後の言葉になった。

 

 

 

 

 

 

 

なす術もなく引き離され、戦争が終わり

奇跡的に生きて収容所から出てきたときには、弟はこの世にいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この話を聞いたとき、ぼくは間抜けな顔で「すげー」と言ったらしい。

感情として、表現しきれない、プラスともマイナスともいえないものが溢れ出てきて、そのことばになったわけだが。

 

 

 

 

ただ、日本でこの時代に生まれ育ったぼくたちが、

この感覚を味わえるかと言われたら、実際どうなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

昨日飲んだ友人たちと、ぼくはどうやって別れたか。

 

 

はは、ばかやろー

また今度ね、気をつけて帰るんだよー

うす、お疲れさん

お疲れー

 

 

なんかそんな感じだった。

というか、だいたい、ふつうこんな感じで別れている。

 

 

 

 

 

まさか、その帰りに本当に何かが起こって、一生会えなくなるだなんて思っていないし思えない。

気をつけて、とは言っても、そこまで想定をしたことばではない。

 

 

 

 

それでもう会えなかったら、けっこう辛い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局わからないのよ、その女性の気持ちは、平和にボケたしあわせなぼくらには

 

 

 

 

 

と、タバコの煙を燻らせながら、そのひとはそう言った。

 

 

 

 

 

結局ね、平等なんてのは戯言でしかないさね、そういう意味では

 

だからね、最低限ね、ひどいこと言わなきゃいいのよ、いつも

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終戦だし、原爆だし、何か考えたくなる。

 

でも結局わからない。ぼくにできることは、今日をできるだけ生きることだけなのである。

 

 

 

 

 

ばあさんのこづかい

 

 

 

ばあさんは本当に優しい。

 

 

 

 

 

姉のことも、弟のことも、ぼくのことも、誰を贔屓するようなこともなく平等に

小さいときと変わらず、今も尚愛してくれている実感があるし

 

「ダイちゃん(親父)の子どもだから好きなのよ」と

あくまで愛する息子の息子だから、と前置くところも好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

前述参照(以下)だが、

 

salud.hatenablog.com

 

ばあさんが、ここ数年で急に呆けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

30分前に飯を食べたことを忘れてしまう。

今日会ったことも、忘れてしまっているらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ばあさんは、よくお小遣いをくれる。

 

 

 

 

 

 

社会人になってからは、もう一人前だからと断るようにしていたが

 

じいさんが死んでから、なんとなしに、

受け取るようにした。

 

そうするべきだと思ったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

呆けたな、と実感したのも、そのタイミングだった。

 

 

 

 

 

 

連れ出さないとずっとテレビを見ているので、

買い物付き合ってよ、と浅草に連れ出した。

 

 

 

 

 

 

 

家どこだっけね

 

お台場だよ

 

ここまでどうやって来たんだい

 

電車だよ

 

ここまでじゃ電車賃もバカにならないでしょう。

 

うーん、そうだね。往復するとけっこうかかるね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなわけない。

 

でもそれで良い。

昔から、ただお小遣いを渡すことに親は難色を示していたので

何かしら理由をつけて渡してくれるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はい、電車賃ね。

 

ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

ご飯とか、電車賃とか、そういう免罪符があれば

なんとなくぼくも受け取りやすい。

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと、せっかくだからそこの喫茶店まで歩こうか、

 

 

 

 

そう言って、ばあさんのペースに合わせながら歩く。

 

すっかり歩くペースも遅くなった。

 

どんどん後ろから追い越されていく。

 

 

 

みんな歩くの早いなあ、いつもじぶんもこんなもんか。

 

 

 

ばあさんと歩く時間は、けっこう貴重だ。

 

見えないもの、見ようとしないものが、見えたりする。

 

 

 

 

こんな路地あったんだ。

 

 

 

あれ、奥に喫茶店ある。

 

 

 

ばあさん、あそこ入ろうか。楽しそう。

 

 

 

 

 

 

カラン、という音で、奥からおばさんが顔を出す。

 

目が合うと「おしぼりお持ちしますから、お好きなお席どうぞ~!」と叫ばれた。

 

 

 

手前の席に座り、ふうっと一息ついた。

 

 

 

 

 

 

コーヒーふたつください

ミルクとお砂糖いるよね、ばあさん

 

うん、そうだね

 

おけ、それでお願いします

 

 

 

 

 

はーい

 

 

 

 

 

 

こんなところあったんだね

 

そうだねえ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すぐにきたコーヒーをズズッと啜る。

 

他愛もない話、聞いてもわからないだろうぼくの仕事の話。

 

全部を、ばあさんは笑いながら、うん、うん、と聞いてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ばあさんが、少し間が空いたタイミングでこう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえば、お小遣い渡したっけね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さっきもらったよ

 

 

そう言おうとした。

 

 

 

 

 

 

でも、何が正解かを考えたときに

 

ぼくはそのことばを言えなかった。

 

 

 

 

 

呆けたこと、それ自体を、ばあさんは今覚えていない。

 

 

 

たぶん、わからないけれど、それを受け止めることって、

それなりにパワーがいることだと思う。

 

毎日、ばあさんはそれに直面して、そのたび何を思っているんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さっきと全く同じやり取りをして

 

ぼくはまた、お小遣いを受け取った。

 

 

 

 

 

 

そのあと、ばあさんがお手洗いに、席を立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さっきのことを、必死で整理した。

 

 

 

 

 

 

 

その結果ぼくは、もらった1万円を、そっとばあさんのバッグの中に戻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戻ってきたばあさんが

 

 

「そういえばここまでどうやってきたの?電車賃あげないとね」

 

 

と、さっき戻した1万円をくれた。

 

 

 

 

 

 

ありがとう、

 

 

またぼくは受け取った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また、ばあさんがいないタイミングで、それを戻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくにできることはなんだろう。

 

 

 

 

じぶんが、ひととして正しいことをしているとは思えない。

 

でも、ぼくは、ばあさんの嬉しそうな笑顔を前に、正義で動けない。

 

 

 

 

 

もう、人生の後半の

ロスタイムも終わりかけだ。

 

 

しあわせな、できるだけ笑顔の時間をつくってあげたい。

たとえそれをすぐに忘れてしまうとしても。

 

それは、ぼくの逃げでしかないこともわかっている。

 

 

 

 

もうもらったよ、と伝えることが正解か。

優しい嘘も、あると信じている。

 

 

狭間で、揺れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうだねえ、わたしたちの頃はね、ダイちゃんが小学校の頃はね

 

PTAの会合が終わったら、みんなお母さんたちは通学路の喫茶店でね

 

コーヒー飲みながらおしゃべりしてたんだよ。そうしたらお昼休みの先生が来てね

 

タバコ吸いながらまた喋ってね、あのときの先生なんて適当なもんだったね

 

 

 

 

 

 

 

 

何回聞いた話だろう。

 

でも、毎回最後まで聞く。

 

 

 

それが30分後にまた聞く話だと分かっていても。