オール ウィー ニード イズ…?
少し間が空いてしまいました。
何かに没頭していないとやり過ごせない心境で、
何か望んで追われるように日々を過ごしていましたが
なかなか、そう、かんたんに、片付く気持ちではないもので
チリチリとした、というか、ささくれみたいな感情が
ずっとひっかかっていたのですが。
そんな中でも、ときどき、やり過ごせる日があるんです。
決まってそのとき、誰かがいるんですよね。
ご飯に連れ出してくれたり、連絡をくれたり、電話をくれたり。
道端でばったり、なぜここでというタイミングで会ったり。
なんにせよ、
共有できるということは、とてもしあわせなことだなあと、思います。
そこに何かあるわけじゃなくとも、根本的な解決でなくとも、その瞬間、その時間に身を委ねさせてくれる、そんなときも、たまに必要なんだな、と思います。
語尾って、印象を大きく左右すると思います。
いつもは丁寧語でものを書かないぼくですが、今回は自然にそうなりました。
こういう心の動きもあるのかと、ひとのそういう瞬間に出会った時には、優しい気持ちで接しようと思います。
ギフト、という映画を観ました。
妻と観たかったのですが、今、彼女は北海道にいるので
誰と観るわけでもなく、ひとりで観ました。
レイトショー、ぼくを入れて5人程度でしょうか。
小さい映画館でしっぽりと。
ペアは一組で、あとは個人。
こういうのは、心地良いものです。
プロの人気アメフト選手の、幸せな結婚、選手生活引退、自由な人生を謳歌。
奥さんの妊娠が発覚、幸せ絶頂なタイミングでのALS診断。
筋肉が動かなくなり、最終的に呼吸もできなくなる。
診断後の寿命は2~4年程度という難病。
彼は、生まれてくる息子に、毎日メッセージビデオを撮り始めます。
息子が話せるようになるとき、自分はきっと話せない。生きているかも分からない。
今、残せるものを残したい。
そんな夫を、献身的に支え続ける妻の、やり切れない思い、葛藤。
そして息子の誕生と成長。
日に日に、やれたことができなくなっていく。
呼吸が自力でできなくなる。それでも生きたい。生きていたい。
やれることがある。一緒にいたいひとがいる。
そんな話でした。
そこにあるのは、絶望と、そして希望、愛でした。
あまりに現実的な話。
診断を受けても、体に違和感があるだけで、まだ日常生活に少しも支障はありません。
もしかしたら、治るのでは。
もしかしたら、誤診なのでは。
うちだけは特別かもしれない。
そう思う。信じたい。期待したい。
走れなくなった。泳げなくなった。
夫のその姿を観たときに、妻は病気を心から実感してしまいます。
本当にそうなんだ。
治らないんだ、と。
アメフト選手とは思えないほど、体はどんどんやせ細ってゆきます。
治療法のない難病。回復の兆しなんてないのです。
それでも、ひとは生きるのです。死ぬまで。
このドキュメンタリーを観ながら、思うことがありました。
生きる理由があるということは、素晴らしいことだと思います。
それがひとつあるだけで、人生の意義は大きく変わるからです。
なんとなく生きている、という「わけ」でなく
死にたくないから生きる、という「訳」でもなく
生きたいと強く思える、そういう「理由」があると、ひとは強いと思います。
それを、じぶんの中に見出すことは、ときどき難しかったりします。
じぶん以外に見出すからこそ、救われることもあるんじゃないでしょうか。
生まれてくる息子に、伝えたいことがある。
一緒に生きていたい妻がいる。
救いたい、同じ病気に侵されて苦しんでいるひとたちがいる。
彼は、その思いだけで、病と闘い続けています。
もう、死ぬ。絶対に死ぬんです。その圧倒的な現実を前にして、尚、抗えるその原動力となっているのは確実に愛なんでしょう。何か測れるものではない。
その事実に、ただ圧倒されました。
帰り道、電車に乗らずに夜道を歩いて帰りました。
観たかったなあと、この思いを共有したかったなあと
フラフラ考えながら歩くのです。
こういう仕事をしていると、たくさんの根拠というものを探してしまいます。
なぜこう思ったのか、どうやってこれを伝えよう・・・
もしかしたら、本当に大切なひととは、そんなものはいらないんじゃないか、とさえ思いました。
多分、そういう人との時間では、ことばなんてものは飾り、調味料程度でしかないのです。
考えてみれば、大切なひとの「大丈夫だよ」という一言があっただけで
今までいろんなことを、ぼくは確かにやり切れてきました。
そこに理論とか根拠とか、理由とかそういうものなんていらない。
そこにあるのは誰かが誰かを想う、気持ちだけ。
心から想う誰かと生きていくということは、
それは、ほんとうに尊いものなんですね。
そういうものの、そのことばが持つ意味を、この映画から
いくつか見つけられた気がします。