1人と1匹のいきぬき

背伸びして棚に上げています。二日酔いが常。

「良さ」が宿るとき。

 

 

待ちに待った日がきた。

 

 

 

 

 

 

修理に出した財布が戻ってきたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

尊敬する大切な人にいただいた、大事な財布。

 

一見ふつうの黒い長財布なのだが、

そこには他と全く違う思い入れがあるがゆえに

新しく財布を買うくらいの修理費用がかかったとしても、修理に出すのだ。

 

 

 

修理に出すお店も、いろいろ調べて決めた。

どれだけの対応をしてくれるのか。

そもそもそのブランドを知っているか。

なにせ、その人以外にそのブランドの財布を使っている人を見たことがない。

 

 

ファスナーのサイズ、シルバーの色合い、ファスナーを開ける感じ、皮の吸い付く感じ。

 

そのひとがぼくに語ってくれたこだわりの数々をそのままに、

どれだけこの財布が大切なもので、状態を保って使っていきたいか、伝えた。

 

 

大変申し訳ないんですけど、という前置きの上でも

ものすごく面倒な客だと迷惑そうな顔をした方もいた。

それでも、丁寧に最後まで聞いて「好きなんだねえ、ほんとに」と笑った人の良さそうなおじさんに決めた。

 

 

実際に工場に出す発注書の内容に、事細かに

ぼくが話した内容を書き込んでくれた。

 

 

 

 

 

 

その、君のこだわりも、伝えておくね、それが良いんでしょ

 

そうしてください笑

 

 

 

 

 

 

大切な気持ちを理解ってくれたことに感謝した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これからも、この財布を使うんだと思う。

いつしかその必要がなくなる、そのときまで。

 

 

 

 

そういう、少しの大切なものたちに囲まれていたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世の中にはものが溢れている。

良いっぽいものも、平気で転がっている。

新しい、面白いものも、かっこいいものも、しゅっちゅう見かける。

見るたびに変わっているから、忙しい。

 

 

 

 

 

「良いもの」とは何なのか。

その定義が明確に曖昧なまま、世間の言う良いっぽいものに

手っ取り早い安心を求めている人は少なくないと思う。

 

 

 

 

「良いもの」とは、本来人それぞれであると思う。

そこに共感を求める必要もない。

 

 

 

 

もし仮に多くの人が使えば「良いもの」なんだとしたら

ユニクロとかZARAがいちばんファッショナブルな服だし

カップラーメンがいちばんうまい飯なのだ。

 

 

 

 

でもそうじゃない。

ここは、たぶん、多くのひとが頷く。不思議だ。

 

 

 

 

簡単にものが手に入る今。

 

 

 

しあわせな時代に生まれたなあと思う一方で

そういうものに対する審美眼については、そういうわけで

多くのひとが持ち合わせないまま過ごしている気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぼくは、好きなブランドの服以外は、ほぼいただいた服で生きている。

 

 

 

仕事上、極力じぶんはコレだ、こだわりみたいなものは持ちたくないなあと思っているから

じぶんが似合う服を着るのではなく、ひとが、ぼくに似合うと思ってくれる服を着たいと思う。

 

 

 

それに、ぼくにとって最も価値があることやものは、

良いものに溢れている中で「そこに思いがある」ことが大切なのだ。

 

 

 

 

 

素材が良いものや、高価なものは、着るとカチッとしたくなる。

背筋が伸びる気分だ。ゆえにスーツはそういうものを選んでいたりもする。

 

でも、そこに身近に尊敬するひとや好きなひとの、ぼくに対する思いが乗っかってくると

そういう、身が引き締まる思いとともに、包まれている、というか、あたたかみを感じるのだ。

 

 

 

 

 

 

今の時代、どれだけの思いをそこに込められるかが、ものの価値だと、ぼくは思う。

 

 

値段じゃない。そこに思いがあるかどうか。

ただかっこいいものは、たくさんあるのだ。

 

 

 

もちろん、そういうものに思いがこもっていない、と言っているわけではない。

ハイブランドにはそれぞれ、そこに君臨し続ける理由がある。

それはきっと「思い」だ。

それがブランドというものだとも思う。

 

 

 

ただ、ぼくが大切にしたいのは、その服そのものに対する思いではなく

 

大切にしたいひとが、同じく思いをぼくに対して持ってくれていて

思い入れのある何かを、引き継ごうとしてくれる、その思いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お世話になっている先輩に、また服をいただいた。

 

 

 

 

 

 

 

ちょっとこっち来な

 

 

はい

 

 

わ、なんすかこれ

 

 

これ、全部やるよ

 

 

まじっすか

 

 

これを似合うやつが、たくさん着てくれた方が俺も良いから

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先輩宅にて、奥さんも含めた晩酌後、ふたりで夜な夜な話した。

ひとしきり酒を飲みきり、ウィスキーを片手に先輩と、酔っ払った気持ち良さもあり

身に付けるものについてのこだわりをいろいろ話した。

 

 

 

 

 

この服が、どんな経緯で今ここにあるのか。

先輩のその服に対する思い、ストーリー。

 

なぜその先にぼくを選んでくれたのか。

先輩とぼくとのストーリー。

 

 

 

 

 

こんな旨い肴はない。

 

 

 

 

 

 

それは、オリジナルのストーリーだ。

どのブランドがどれだけのこだわりを持って、どれだけの財を投じて何かを作ったとしても

手に入らない、先輩や、ぼくにしか作り得ない、わからない、物語がそこにはある。

 

 

 

 

 

 

 

それこそが価値だと思うし、

ぼくにとっての「良いもの」は、物語を語れるもの、

 

中でも、「そういう」物語を語れるものなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前が着てくれるなら、やるよ」

 

 

そう言ってもらえることは、この上なく嬉しい。

 

 

 

これからもそうやってストーリーを身に纏って生きていきたいし

ぼく自身もそうやってひとに思いを引き継いでいきたいと切に思う。

 

 

 

 

 

そんなことを、ひとりで晩酌しつつ、戻ってきた財布を磨きながら考えている。

なかなかに幸せである。

 

これも、頂いた日本酒だ。わざわざ帰省先で買って帰ってきてくれたのである。

 

 

ここにもストーリーがある。

 

 

 

 

そこに、「良さ」が宿るのだ。