結局、わからないのよ
先日、こんな話をした。
「今そのひとにかけたことばが、そのひとにかけた最後の言葉になったらどうする?」
こんなことばを、何かの本のなかで、
第二次大戦中、ナチスに本国を侵略され、
強制収容所で家族を全て亡くし、ひとりだけ生き残った女性が言っていた。
幼かった彼女は、ナチスに強制的に汽車に乗らされ、収容所へ向かわされていた。
親とは逸れ(もう殺されていたんだろう)、小さい弟と一緒だった彼女は
何か取るに足らないことで、弟を叱ったらしい。
何が起こっているのかも、これから何が起こるかもわからない状況下。
不安に押しつぶされそうな中で、何も理解できていない弟の無邪気な行動に
思わず口をついてきついことばが出てきてしまった、という。
そして、そのことばが、弟にかけた最後の言葉になった。
なす術もなく引き離され、戦争が終わり
奇跡的に生きて収容所から出てきたときには、弟はこの世にいなかった。
この話を聞いたとき、ぼくは間抜けな顔で「すげー」と言ったらしい。
感情として、表現しきれない、プラスともマイナスともいえないものが溢れ出てきて、そのことばになったわけだが。
ただ、日本でこの時代に生まれ育ったぼくたちが、
この感覚を味わえるかと言われたら、実際どうなのだろうか。
昨日飲んだ友人たちと、ぼくはどうやって別れたか。
はは、ばかやろー
また今度ね、気をつけて帰るんだよー
うす、お疲れさん
お疲れー
なんかそんな感じだった。
というか、だいたい、ふつうこんな感じで別れている。
まさか、その帰りに本当に何かが起こって、一生会えなくなるだなんて思っていないし思えない。
気をつけて、とは言っても、そこまで想定をしたことばではない。
それでもう会えなかったら、けっこう辛い。
結局わからないのよ、その女性の気持ちは、平和にボケたしあわせなぼくらには
と、タバコの煙を燻らせながら、そのひとはそう言った。
結局ね、平等なんてのは戯言でしかないさね、そういう意味では
だからね、最低限ね、ひどいこと言わなきゃいいのよ、いつも
終戦だし、原爆だし、何か考えたくなる。
でも結局わからない。ぼくにできることは、今日をできるだけ生きることだけなのである。