1人と1匹のいきぬき

背伸びして棚に上げています。二日酔いが常。

珈琲も飲みたい

 

 

 

 

 

朝6時。

 

 

 

いつも通り浅煎りの珈琲を淹れる。

 

 

 

歳をとって、早起きになった。

3時に寝ても、4時に寝ても、6時に一度目が覚める。

すっかりおっさんである。じぶんの中のおっさんの存在にビビる。

 

いつか人格が入れ替わりおっさんに支配されてしまうのではあるまいか。

君の名は。の主人公が、おっさんとおっさんになりかけのプチおっさんだったらと思うとゾッとする。

 

 

 

とりあえず、なんだかもったいないので、そこで起きる。

 

 

「もったいない」という価値観も人それぞれで

たぶん、同じ「もったいない」でも、再び寝る選択をするひとの方が多い気がする。

ひとは、それぞれである。本当に。

 

 

 

 

 

 

初めに言っておくと、ぼくはコーヒーが好きだ。

 

 

しかし、朝から深煎りのコーヒーを飲むと1日中お腹が痛くなる。

 

コーヒーのことをどれだけ好いても、一向にコーヒーからの歩み寄りはない。

人生に似ている。深いっぽいことを言ってみる。コーヒーだけに。

 

 

 

 

とりあえず、そんなわけで朝は浅煎りと決まっている。

 

あさ、ということで覚えておいてほしい。覚えなくても良い。本当に。

 

 

 

 

 

深煎りということなのだが、コーヒーというのは非常に深い。

 

これも、読み飛ばして良い。本当に。

 

 

 

 

 

今日はちょっとした小ボケを放り込みたい気分なのだ。

前言での失敗を取り返そうと、それがたびたびになってしまい、

無限ループに陥っているのである。こんな序盤から泥試合である。

コーヒーをスプーンでかき混ぜ、ミルクを垂らしたあの感じである。

 

 

 

 

 

そういえば、昔ボツになった曲の歌詞で

 

ぼくの頭はぐるぐる回る、そう、ちょうどこの、コーヒーカップのように

 

という歌詞を書いた。

ボツになるはずである。非常にダサい。書いていて恥ずかしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コーヒーというのは、南回帰線と北回帰線の間の一部の地域で栽培されている。

コーヒーベルトと呼ばれているエリアだ。

高度が500mから2500m程度の高地か山でなければ育たないという、なんとも本来希少なものなのだ。

南米、中米、アフリカ、アジア、オセアニアなどで一年中栽培され、地域によって収穫時期は異なる。

コロンビアやケニアなど雨季が2回ある国は年二度収穫される場所もある。

 

 

 

 

 

ここまで説明しておいてなんだが、あくまで私の記憶の情報である。

ここに記載するにあたって全く正誤は確認していない。

たぶん基本情報なので合っているが、基本的に「ネットの情報は信じるな」である。

 

 

 

 

 

 

コーヒーの香りは本当に地域や栽培方法で様々だ。

浅煎りだとフルーツや花、深煎りだとバニラやナッツ、チョコレートを感じさせるものが多い。

口当たりは浅煎りだとざらつき、深いと滑らかに、味は浅煎りだと酸味が、深いと苦味が強くなる。

 

豆によっては深い焙煎だと味が急激に抜けてしまうこともあったりする。

なかなか気難しい子たちなのである。そこがおもしろいのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

コーヒーの味というのは豆それ自体だけでなく、バリスタの腕に大きく左右される。

 

煎り具合から入り、落とし方、お湯の温度、注ぐ湯量の細さ、蒸らす時間、落とすスピード、そもそもの落とす環境温度、湿度など、様々な要素が複雑に絡み合い、一杯のコーヒーが完成する。

 

言ってしまえば、不味い豆でも、巧いバリスタが淹れると、美味くなることも充分にあり得る。

 

 

 

 

 

 

 

コーヒーを淹れる行為は、エクストリームスポーツに似ていると、ぼくは個人的に思っている。

スカイダイビングやスキンダイビング、またふだんはスケボをやっているのだが

こういったスポーツが好きなのは、一体になれることのないはずの「自然」と、対話する瞬間があるからだ。

 

 

 

 

 

コーヒーを淹れるときに得られる感覚は、これに近い気がする。

 

 

豆を蒸らしているときの空気。

お湯を注いでいるときのあの没入感。

 

 

じぶんの思った通りの温度、細さ、感覚で注がれた湯が、思った通りに豆を経由してカップに落ちていく感覚。

 

 

バリスタを何年やってもコーヒーはお腹が痛くなるし

細かい味なんてのは語り出すと上には上がおりキリがないのだが

 

それでも、うまく落ちたときのコーヒーは、美味い。

 

 

 

本当にすごいバリスタさんが淹れたコーヒーというのは、誰が飲んでも本当に美味い。

雑味がない、というのはこれか、ということが、多分誰でもわかる。

 

 

 

 

 

ハンドドリップという行為は会話だ、と言っていた方がいた。

ぼくにはその時わからなかったが、淹れ続けていくうちに少し理解ってきた気がする。

 

 

きっと何事もそうなんだろう。

 

 

やり続けて初めてわかることが、きっとある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コーヒーの味に関しても、おもしろいと思うことがある。

 

 

 

そもそも、コーヒーがうまいと良く言うが、果たして本当にそうなのか。

 

本気で言っているのか。

カルピスの方が美味いじゃないか。

ポカリの方が爽やかで甘くて美味しくないか。

そもそも牛乳がいちばん美味い気がする。

 

と、ぼくは思う。

 

 

だが、確かにコーヒーは「うまい」のだ。

美味い、というより、旨い、とでも言うのだろうか。

 

 

 

皇帝ナポレオンは、コーヒーのことを「程良い苦痛」と表現した。

これに関して、おもしろい表現だなあと感心した。

 

言い得て妙で、まさにそうだと感じる。

ぼくにとってそれは、「丁度良い刺激物」なのである。

 

過程に痛みが伴うことはどんなことでも当然あることであり

実際それがある種日々のエンジンになっていることも往々にしてある。

 

朝から手っ取り早くそれを摂取することで、ひとは日々を生き抜いているのである。

朝から苦しみたいなんて、とんだM集団の集まりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局何が言いたかったのか、コーヒーを飲んで一旦落ち着いて考えてみた。

 

 

 

 

コーヒーのうまさは、労働あればこそ。

 

そんなことが言いたかったわけじゃない。

 

 

 

 

仕事の合間にバババッとこの文章を打ち込んでいる、そんないきぬきというか

もはや八つ当たりの時間に、一杯のコーヒーが飲みたかっただけなのである。

 

 

 

またがんばろうと思えるとか、俺頑張ってるよなあ、とか、

そういう、日々の特に励ましの言葉もいらないなんでもないときに

本当に何も言わず、ただ喫煙所で一緒にタバコをふかしてくれるような、俺はわかってるよ、みたいな

 

 

コーヒーっていうのはそういう存在である。

 

 

大丈夫!とかそういうのは、カルピスで良い。

頑張って!きっとやれる!はポカリに任せておけば良い。

そういうことじゃなく、もっと深い位置での結束感、大丈夫じゃねえけどさ、という、

そういうステージでの共感が、コーヒーにはある気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いやはや、今後ともお世話になります。コーヒーさま。